2022年6月9日木曜日

気が散るままに

でかける前の15分で『エストニア紀行』を少しずつ読んでいる。ちかごろは、日中はもちろんだが夜もなかなか本を読めないので、ここ1週間くらい、朝の読書。


未整理の「脳の床」に散らばったチラシや文庫本のたぐいを足でどける。ぜんぶを片付けることはあきらめている。自分が通れる幅の分だけ、通り道にしておくイメージで、雑然たる脳の一部をその場しのぎ的にならして、そこに大事な本を一冊置いて、座り込んで、読む。

まだ、まわりで思考がざわついている。ざわめく声のひとつひとつに耳を傾けずに、ぜんぶをひとまとまりのノイズにしてしまって、耳の機能を意図的に下げるようにして、あれこれをわすれて本を読む。だんだんノイズは聞こえなくなり、声を発していたあれこれ、ごみごみとした脳のすみずみに生息する動く切り絵のようなものたちが沈黙し、座って本を読むぼくに視線を向ける。ぼくは小さく音読し、紙はこまかく振動する。


何かひとつのメッセージを届けようと思って書かれている本の、9割以上は読む気がしない。1割の読めた本は、ぼくがたまたま欲しかったメッセージを都合良く発信してくれていたもので、でもそれは単なる「かみ合わせの妙」でしかないので、偶然によろこぶ以上のうれしさはない。いつしか未整理の本を愛するようになった。何が言いたいのかわかりづらい、おそらく具体的に何かを言いたいわけではない、あるいは何も言いたいことなどないのかもしれない、そういう本をいつしか選んで読むようになった。ぼくが信頼している本読みたちも、ぼくにはそういう「矢印が絡みあったままの本」を選んで手渡してくれるようになった。書き手が必ずしも「書きたいことがない」と思っているわけではないのだ。そういうのはハナにつく。書きたいことはあるのだ、おそらく、それは言語化されないにしても。しかし書いているうちに混じってしまうのだ。遠くにおいてあこがれるように眺めているもののことを書きたい、しかしちらちらと気が散って周囲に目をやると、遠くのあこがれよりも近くの無名の石のほうが細部まで詳しく見えてしまうので、ついそちらのことを詳細に記載してしまっているような本。



『エストニア紀行』にはおそらく書きたいことがちゃんとある。しかしぼくは大枠としてのゲシュタルトをいいなと思うと同時に些細なところに何度もひっかかっていて、それがとても楽しい読書である。ニットのワンピースをくるくるとまるめてトランクに入れておくと便利なのだそうだ。

2022年6月8日水曜日

病理の話(664) 客観性を高めるコツのようなもの

病理診断は「客観的でない」と考える人がいる。

わりとごもっともなご指摘だ。

報告書の字面だけ読んでいると、「核が大きいからおかしい」とか、「細胞の異型が強いから異常だ」のように、大きい小さい、強い弱いといった比較で診断がなされていることも多いから、余計にそう感じる。

少なくとも「何と比べて大きい」とか「何と比較して強い」と言わないとだめだよね。

まあ病理医は無意識に対照を置いて比較しているのだけれど、報告書でそこを省略していることも多いので、かなり主観的に見えてしまいがちである。


できるだけ客観的に、病気を評価できたほうがいい。それは間違いないことだ。


ただし、診断の主観性というものは、病理診断にかぎらず、普遍的につきまとう本質でもある。

いやそんなことないだろ、たとえばPCR検査では陽性(+)と陰性(-)とがゼロイチで決まるじゃないか! などと噛みついてくる人もいるかもしれないが。……いや、その、(+)とか(-)を決めるにあたっても、じつはグレーゾーンがあり、「閾値の設定」があって、完全に客観的にビタッと確定するというものではない。検査の結果の字面だけ見ているとあたかもビシッと一義に決まっているように見えるけどね。ほんとうはもうすこしあいまいなのだ。そのへんは臨床検査医学をきちんと学ばないと実感できないことでもある。



そもそもの話をすると、患者が病院にくるきっかけだって「主観」で決まっている。どこかが痛い、しびれる、だるいというのは、結局のところ客観視するのが難しいファクターだ。本人がつらいと言ったらそれを尊重するのが医療なのだけれども、はたからみて「あーこの人は10段階でいうところの4段階目の痛みを訴えているなあ。」なんて評価することはできないのである。ドラクエのようにHPが数字で見えたら楽かもしれないが、現実の人間は、「HPが200あってもMPがゼロで、しかも職業が魔法使いなので詰んでいる」みたいなことがままあるし、往々にして、HPもMPもカウントそのものは隠されていて誰にも読めないのである。


江戸のころから医療といえば「さじ加減」と言われる。加減の度合いがあまりにはげしいと、患者はふるえあがるだろう。自分が選んだ病院によって治療がうまくいったりいかなかったりしたらたまらない。「医者ガチャ」なんて引いていられないのだ。だから、医療者はいつだって「エビデンス」を大事にして、なるべく客観的な指標をもちいて医療をたいらにならす。どこのだれがいつどのように病院にかかっても、同じクオリティで結果が期待できるように。

しかし、ざんこくなことだが、「さじ加減」は今でも存在している。ただしどの病気にどれだけ薬を入れるかといった「大枠の部分」ではない。さじ加減が存在するのは、たとえば、

「この患者さん、不安そうだな、まあこの薬を2週間飲めばそれでだいたいうまくいくとは思うんだけど、いちおう2週間後にもういちど病院に来てもらって、どうなったか話を聞いた方がいいかもしれないな。本当は2週間後にここに来ても来なくても、病気自体はコントロールできそうだけど、患者さんの不安を解消するためには、もう一度来てもらおう」

みたいな部分なのである。患者の主観と医者の主観とが、「主観同士でよろしくやっている」状態になることで、医療の中の、科学だけでは説明しきれない実学の部分が、なんとなくうまく回るようになったりするのだ。やっぱり医療の一部は今でもさじ加減が大切で、客観だけの冷たい診療ではうまくいかないのであった。



と、病理診断からはじめた話をいつしか医療全体に広げまくってしまったが、それはともかくとして、「病理診断の客観性」についてである。ここはなるべく客観的に担保したほうが、多くの人に不安を与えなくて済む(不安とはまた主観的な話だが)。

そこで、病理診断を客観的に行うための「コツ」みたいなものを最後に書いておく。コツというか具体的なライフハックに近いかな。





病理診断をする際には、プレパラート内の「ここぞ!」という視野を写真に撮る。そして、その写真を、病理医が100人集まる会場に持っていって、プロジェクタでスクリーンに投影して、「ここにこういう像があるから、私はこう診断しました!」と言えるかどうかを自問自答する。


「あ、言えるな」と思ったらその診断はだいぶ客観的だ。


「うーん、これで説得しきれるかなあ」と思ったらその診断はかなり主観的だ。





……え、それだけ? と思うかもしれないがこれってかなり使いやすい。自分が場面と時間とをずらしてその標本に向き合い、主治医以外の専門家に説明してもなお、診断がきちっと確定しているなら、それは「時間を超えた客観性」があり、「場面を超えた客観性」があると考えるのである。えーそれって逃げじゃないの? 違う、逃げじゃない、というかむしろ、これってマジで大変なことなのだ。違うTPOに暮らす自分を説得できないような診断が他人を説得できるわけがあるまい。そうやって、自分に厳しくしておいて、客観性を具体的に高めていくのである。

2022年6月7日火曜日

怒りというバグ

某犬が某イベントで「(仕事中に)怒ってもいいことなんてひとつもないですからね」と言っていて、まったく同意見だ。これは、「怒らないほうがいい」という比較・選択の話ではなく、「怒ってはいけない」という禁止・禁忌の話である。職場では絶対に怒らない方がいい、と言っていい。例外はあるだろうが、それを言ってしまえば万物に例外はあるのでいちいち書いていられない。


部下あるいは同僚に対して、ときには自分より上の人間に対しても、仕事で何か困ったことをしている人に、「なんでだ!」と怒りをぶつけてモノゴトが改善することは絶対にない。「なんでだ(怒)! こうしなさい」とか、「なにをやっているんだ(怒)! ああしなさい」と言いたくなるとき、序盤の「なんでだ(怒)」の部分は、状況をよくすることに何も寄与していない。怒られたほうは、(怒)のあとにある「こうしなさい」「ああしなさい」を参考に自分を修正していくしかないからだ。むしろ、(怒)という感情が先行することで、受け手の側はまず(怒られた)という感情で心が満たされてしまうから、後半の「こうしなさい」「ああしなさい」が入ってくる余力がなくなる。


「しかし何度言ってもワカラナイ人には怒るしかないだろう」という反論が来そうだが、そもそも何度言ってもわからない人がいたとしたら、怒ったところでわかってはもらえない。その枠組みでは教え方が足りていないか、教わり力が足りていないか、その両方が足りていないか、とにかく不足しているからだ。「わかる」「わからない」というのは教育の問題であり、理解・コミュニケーションの話でもある。「わからない」ならさらに効果的な教育手法を用いなければいけない。なのに、そこで怒りという強い攻撃性を持つ伝達手段を用いてしまうというのは、単純に選択ミスだ。怒りでディスコミュニケーションが解決できるというのは錯覚に過ぎない。

「何度言ってもワカラナイ人には怒るしかないだろう」を詳述すると、おそらくこうなる。


「何度言ってもワカラナイ人には(私の力ではどうやってもわからせることができないから、その人を教育することはあきらめるしかないし、ムカムカと腹が立つからせめて)怒る(ことで憂さ晴らしをする)しかないだろう」


言ってもわからないから怒るしかない、という言葉は、ぜんぜん論理的じゃない。


だからぼくはツイッターではもう怒らない。ぼくが怒るのは基本的に、感情を受け止めてもらえそうだなとぼくが信頼して、甘えている人だけだ。そんなの、近しい家族くらいしかいない。しかし家族には怒りたくない、なぜなら家族をいやな気分にさせてもいいことはないからだ。こうして「怒る」という行動を用いるタイミングはどんどん減っていく。




世の中には、怒りという感情には人の目を集める効果があるのだから利用すべきだ、とか、怒りを通じてしかコミュニケーションできない人もいる、などの理由で怒りを武器として選択する人たちもいる。そのような「計算尽くの怒り」は果たして上品だろうかという話で、まあ、下品なのだけれど、人間はたまに下品でいたいという謎の欲望を持っている。

ついでに言うと、「計算して怒っている」と自称する人をしばらく観察していると間違いなく惰性で怒っている。単に情動が失禁してしまっているだけなんてこともよく見られる。いつも怒ってばかりいる人は脳の弁がガバガバになってしまっている。パッキンを買い換えたほうがいい。

感情をせき止めずにリアルタイムで垂れ流しにする不随意な行為。言ってみれば外界からの刺激に対して脊髄反射で手足をぴょこんと動かしているのと一緒だ。食虫植物が葉っぱを開いたり閉じたりするのと違いがない。人間が脳を発達させることで得た能力のひとつに、「刺激にすぐに反応せず、過去の記憶と照らし合わせたり、複数の情報と掛け合わせたりすることで、脳内に刺激をプールして、よりよい行動を選択する」というものがある。つまりしょっちゅう怒っている人というのは脳が機能しなくなっているのだと思う。全部がポンコツにならなくても一部が機能しないということはよくある。電子機器といっしょだ。なまじほかがちゃんと機能していると信じている人は、自分が怒りまくっていることをエラーだとは考えない、でもそれ、じつは脳の機能という意味ではバグっている。


さて、自分の話に引き戻すと、ぼく自身もまだまだ怒りをあらわにすることはあり、あとから振り返って「このバグは修正しないといかんなあ」という後悔に苛まれる。できれば家族には怒らない自分でいたいがうっかり職場でやらかしそうになることもある。ここで自らの不快をきちんと表明しておかないといずれまた同じことをくり返されても困る、みたいな「うそくさい魅力をはらんだストーリー」に飲み込まれてしまうことがあるのだ。冷静に振り返ってみると、「不快を表明する」ことと「怒る」ことはイコールではないのだけれど。

2022年6月6日月曜日

病理の話(663) 信頼されなかったときの思い出話

時期も場所も明かせないが、かつてこんなことがあった、という話をする。


今ぼくが勤めている病院ではない某所で、「A」という科から提出されたある臓器の病理診断をした。それから1,2か月経ったある日、A科の部長クラスの医者から、ものすごく腰の低い電話がかかってきた。


「先生……誠に申し訳ないんですが……」


からはじまったその電話は、いかにも平身低頭という雰囲気である。電話口で、「これはただごとではないぞ」と身構えた。


「じつは先生に診断して頂いた病理の結果を、当院に外からやってきている『カリスマ医師』が読み、その……いろいろと面倒なことになっております。いや、私たちにも、その医師には頭が上がらないんですが、結局はその……申し上げにくいのですけれども……」


ここまでを聞いて真っ先に疑ったのは、ぼくが「誤診」したのだろうか、ということだ。と言っても、病理診断の良し悪しを臨床医が判断できるわけではない。つまり単純な診断に対する疑問ではなく、もう少し込み入っている問い合わせなのだろう。たとえば、「古い取扱い規約にのっとって報告書を書いてしまった」とか、「現在学会で推奨されている免疫染色をせずに診断を書いた」などの、細かいミス。そういうのは、病理医よりも、臨床医のほうが気づきやすい。


しかし、どうやら電話の続きを聞くとそうではないのである。


「(そのカリスマ医師が)この病理診断はおかしい、間違っている、と言っておりまして……」


予想に反してそのカリスマはぼくの診断そのものを疑っているのだった。プレパラートを直接見ているわけでもないのに、なぜ? と、当時のぼくはわからずにいた。


今なら、わかる。


病理医が標本をみる前に、臨床医はCTやMRI、内視鏡、超音波などの「画像」や、血液検査などの「各種検査」で、患者のことをかなり知った状態になっている。要は、病理診断などせずとも、「臨床医なりの診断」が下されている。臨床医の考えがある状態で行われるのが病理診断であり、その結果はしばしば、臨床医の予想を裏切ったり、期待を超えたりする。つまりは、「ずれる」。


そのずれを許容できないタイプの「カリスマ」だったのだろう。たぶん、自分が事前に下した診断と、患者から採ってきた検体をみたぼくの病理診断とが、合わなかったのだ。


しかし、それにしても、である。


普通は、「事前の予想と違っていたら、自分でその病理医に問い合わせる」のが筋である。


しかしそのカリスマは、わざわざ、「A」科の医師たちの前で、「こいつの病理診断は間違っているぞ!」と騒いでいるようなのだ。


なにをしたいのだろうか? A科の部長は、続けて言った。


「というわけで、先生におかれましては本当に失礼な話なのですけれども、病理を某大学の病理学講座に送って、コンサルテーションをしてもらいたいのですが……そういうことは可能でしょうか?」


ぼくは少し拍子抜けした。これはつまり、「セカンドオピニオン」を求めたいということではないか(セカンドオピニオンは患者だけの権利ではない。主治医と病理医との間でもあり得る関係である)。ならそう言ってくれればいいのに。ぼくは安堵気味に、答えた。


「もちろんです、それはもう、どんどん某大学に意見を求めて下さい」


するとA科の部長は、それだけではない、と断って、(電話だから見えないけど)背中を小さく丸めながらこう付け加えた。


「その……(カリスマは)これからはA科の検体は全部某大学に送りたい、とも言っているのです」


なるほど。それでさっきからこんなに申し訳なさそうな態度だったのか、と、ぼくはようやく話の要点を理解した。

カリスマはぼくに二度と病理診断をしてほしくないということなのである。だから、本来の流れであれば、A科の病理診断は今後もたまにぼくが担当するはずなのだけれど、これからはもう、A科の診断はぼくの元には届かないぞ、というお断りの連絡なのだ。


さすがにぼくは少しがっくりとした。「はい、わかりました。それはもう、主治医の方々が安心して病理診断を依頼できるところと組むのが一番ですので、ぜひそうなさってください」


電話を切り、病理標本を移送する手続きを行って、しばらくうつうつとした毎日を過ごし、いつしか、その悔しさも薄れていった。





だいぶ経ったある日。

くだんの病院の検査技師長から、ぼくあてに荷物が届いた。

開けてみると、そこには、例の「大学にコンサルテーションをお願いしたプレパラート」が入っており、大学病院であらためて診断した結果が同封されていた。

あれやこれやを忘れつつあったぼくは急速に記憶を取り戻しつつ、少し震える手で「コンサルテーション結果」を開いた。



そこには「前病理医の診断と同じです。」からはじまる診断意見文があった。



所見を読む。ぼくの判断とまったく同じであった。大学に所属する2名のサインが手書きで添えられていた。

小さく息をつく。よかった。ぼくは誤診してなかった。そしてすぐ、次の感想が思い浮かぶ。

(あのカリスマはどういう気持ちでこれを読んだのだろうか。)

何がしゃくに障ったのかわからないが、ぼくの病理診断を受け入れられずに、大学へのセカンドオピニオンを求め、その結果がぼくと同じだった。さて、そのカリスマは、はいそうですか、では私が間違っていましたと考えるだろうか?

考えないだろう。きっと。

慎重さを来すためにセカンドオピニオンを求めただけならば、結果は受け入れると思う。しかし、どうも、あのときの電話の雰囲気だと、カリスマは「慎重のために」セカンドオピニオンを頼んだわけではない。

ぼくという病理医「ごとき」によって、自分の臨床診断が覆されたことが許せなかったのではないか。

ぼくという「ザコ病理医」が間違っていることをコンサルテーションによって証明し、大学でなければ間違うような病気を、自分は臨床的にばっちり診断できるというお墨付き――それはおそらく、「プロフェッショナル仕事の流儀」とか「情熱大陸」とかで語られるようなエピソードにもなる――を、欲しかったのではないか。

それが手に入らなかった今、そのカリスマは、謙虚になるだろうか?

そうは思わない。

たぶん、よけいに、ひねくれるだろうと思った。



検査技師長からの手紙には、なんと、もう一通のコンサルテーション結果も入っていた。ぼくが知らないうちに、ほかにも、過去の診断に「疑義がある」ということで、コンサルテーションが行われていた。そしてそちらの結果も、

「前病理医の診断と同じです。」

であった。

見返してみると、2例とも、事前の臨床診断と病理診断とが食い違っていた。





端的にぼくからの目線だけでまとめれば、

・失礼なカリスマがいて

・ぼくの診断を疑って、大学の権威にすがって

・でもぼくの診断があってて、カリスマが間違っていた

という、わかりやすい「カタルシスもの」として語ることはできる。

でも、ぼくはどうも、そういう気にはなれなかった。



この2件の裏で、カリスマが、患者に話をしている姿が思い浮かぶ。手術前の説明で自分の見立てを話し、きっと私が考えた通りの病気だが大丈夫だ、まかせなさい、と言っておいて、帰ってきた病理診断が自分の考えと違って、置き所のない怒りに襲われている姿。病理診断報告書を片手に、患者にどう説明すべきかと、ぶつぶつ悩んでいる姿。そして、「この病理医がおかしいので、大学に相談をしますから」と、さらに自分のカリスマ性を誇示するような説明をする姿。最終的に、大学から、「前の病理医に賛成」と書かれた手紙が返ってきたとして、その手紙を……


まるめて、ゴミ箱に捨てる姿。




そもそも診断が難しい病気なのだから仕方がないところもあるにせよ、もしぼくが考えたとおりの人物像であったならば、そのカリスマはずいぶんと、「不機嫌によって周囲を右往左往させた」のではないかと思う。その「周囲」には、A科の部長も、検査技師も、そして、もちろんのことだが患者も含まれる。




いろいろな人に迷惑をかけた原因の一端は、ぼくにある。そもそも、ぼくが「臨床医に尊敬・信頼されるレポート」を書いていれば、このようなことは起こらなかったはずなのだ。

カリスマが自分の診断のまちがいを認めるだけの「説得力」を診断文に込めていれば。

文面で脱帽・納得させていれば。

あるいは、臨床診断がむずかしくて病理診断と食い違う理由を丁寧に解き明かすだけの「やさしさ」が垣間見えれば。

さらに極論すると、ぼくが「大学病院の病理医並みの権威」を持っていれば。

そもそもこんな話しにはならなかったかもしれない。

まあ権威に帰着させるのも違うか。でも、たとえば、「A科の部長」とぼくとがもっと深い信頼関係を結べていれば、カリスマがいかに騒ごうとも、部長が「まあまあ、あの病理医はいい人なので、診断に疑問があるなら直接おたずねになってはいかがでしょう」と取りなしてくれたかもしれないのだ。




このことがあって以来、ぼくの病理診断に対する態度は少し変わった。

「自分の診断が正しいこと」は、大前提。そこは最低限のポイントだ。

その上で、「病理報告書をめぐって、主治医がどんな感情になっているか」にも気を配らないとだめだ、ということを考え始めた。

「ぼくの診断が合っているか否か」とは別の部分で、主治医と患者との関係や、診療の方針が変わってしまうことがある。ずれてしまうことがある。

身にしみた。




セカンドオピニオンの結果を見て肩を落とすカリスマの心に寄り添うことは、当時のぼくにはできなかった。

今なら、できるだろうか。自信はない。世間一般に広まっている「寄り添い」と比べるとずいぶんとドロドロ汚くてめんどくさいなあと思う。でも、やった方がいい……やれたらいい。

医療という難しいものを相手にする者同士、もっと、仲良く、うまくやれたらいい。あれ以来のぼくはときどきそう考えている。

2022年6月3日金曜日

うっとなる作品

ブルーピリオドの12巻には「チューニング」という言葉が出てくる。アフタヌーン連載時にもここで「うっ」となった。どういう文脈で出てくるかというと、


会話するときに、相手にしっかり「チューニング」してしゃべってくれる人はすごい


という意味で出てくるのだ。


教師が生徒を指導するとき、友人どうしでお互いに何かを注意しあうとき、あるいはもっとフランクに、誰かと誰かが疑問や意見を交わすときに、相手がそれまでに用いてきた言葉、育ってきた環境、立ち位置などを加味して、「そこに波長が合うようにチューンする」と、聞いているほうは「なんてわかりやすくしゃべってくれる人なんだ!」と、ものすごく感動する。

そういう話が出てくる。そこで「うっ」となった。今もなっている。



これを読んで、チューニング最高! と言いたくなるわけではない。

相手に合わせてしゃべれる人はカリスマ! と言いたくなるわけではない。

むしろその逆なのだ。そこで「うっ」となる。

ブルーピリオドというマンガ自体、「相手にチューニングするのがうまい人」に対する疑念、うさんくささ、「宗教」のあやしさみたいなものを丁寧に描いているので、おそらく多くの読者もまた、「チューニングがうまい人としゃべりたい~」というストレートな感想は持たないし、持てない。この作品の凄みはそういう細部にある。違和感をないがしろにしていない。読者が、「チューニングバリバリでしゃべってくれる人の言うことに騙されてはいけないのかも……」みたいな読み方「も」できるように描いている。そこで「うっ」となる。「うっ、どっちだ?」みたいな感覚になる。



この、「うっ、どっちだ?」というのも、たぶんブルーピリオドの裏テーマのひとつだ。「若さ」が選択をするときのこと。あるいは、「若さ」が自分の人生を「選択のくりかえしだ」と感じてしまっていること。実際には、本当は、二択や三択でビシッと決まるような、ギャルゲーの選択肢的な場面なんてほとんどないのだが、「若さ」はいつも、過去を何度も振り返りながら、あとで振り返って見ると立ち上がってくる「選べなかった選択肢」をくり返し考えようとする。

どっちもクソもないのだ。本当は。わりと。



ブルーピリオドは何重にも「うっ」となるマンガだ。基本的には若さを描いているのだが、「若さを振り返りたくなる年齢」で読むと、本当は存在しなかった「後付けの選択肢」を自分の過去にも見出してしまって「うっ」となるので、あるいはこれは中年が読むべきマンガなのかもしれないなと思う。読んで「うっ」となる作品は貴重だ。何の役に立つかという話ではない。「うっ」となるものを摂取するということ。

2022年6月2日木曜日

病理の話(662) 病理解剖の効能

患者が病気によって亡くなったあと、主治医と患者家族が話しあって、病理解剖を行うことがある。


病理解剖を執刀するのは病理医だ。主要な内臓をとりだして、それらを肉眼的にくまなく検索し、勘所についてはプレパラートを作成して細かく顕微鏡で見る。プレパラートには免疫染色などの詳細な検査を追加することも可能。


つまり……病理解剖をする理由をまとめると、


・病理医が(いろいろなやりかたで)みる


ためということになる……。






いや!


そうではないのだ!


最近気づいたのだが、

病理解剖の「いっちばん特殊な部分」は、「病理医がみる」ところにあるのだけれど、「いっちばん大事な部分」は、たぶんそこじゃない。

「病理医がみる」ではなくて、

「病理医みる」というのが、病理解剖の最大のメリットなのである。ここを詳しく説明する。




病理解剖が終わって、ご遺体をご家族のもとにお返ししたあと(傷をきれいに縫い、洗って、包帯を巻き、着物を着ていただき、エンバーミングした状態でお返しする)、病理医はかなり長い時間をかけて臓器の検索を行う。切り出し、プレパラート作成、検鏡……。そして、報告書をしたためる。

この報告書が出たあとがポイントだ。

報告書を受け取った主治医は、病理医と、そして「その患者にこれまでかかわった人たち」とを集める。

なんなら、「かかわってないけど病院内のほかの部門でがんばっている医者たち」も集めることがある。

とにかく多くのプロを集めて、病理医が検索した病理解剖の結果をもとに、カンファレンスを行う。

カンファレンスでは、「患者の生前に起こったこと」を主治医がことこまかにまとめて発表する。

いつから病気に悩んでいて、どのタイミングで診断がつき、どのような治療をして、それによって病気がどのように良くなったり悪くなったりしたか、途中で何かの副作用に悩まされることはあったか、メインの病気以外のトラブルはなかったか……そして、どのように亡くなったか。

これをうけて、病理医が、解剖によって得られた知見を発表する。すでに報告書に文章でまとめてはいるけれど、豊富に写真を提示しながらきちんと口頭でプレゼンをすると、伝わる深さはまた別次元のものとなる。

主治医と病理医が、それぞれ違う角度から患者をみまくった結果を、カンファレンスの列席者が、「岡目八目」の気分で検討し、「そこではこういうことも考えられるのではないか」「病理で他にこういうことはわからなかったのか」などと質問をする。



そう、病理解剖は、解剖しておわりではないのだ。「解剖まですることになった人」を、プロの医療者たちが、よってたかって何度も深掘りして考えていく、そのきっかけが「解剖」という特殊手技であるだけのことなのだ。


カンファなき病理解剖の意義は半減する。まあ、半分しかなくてもけっこういろんなことがわかるので、主治医が忙しいとか、病理医が足りないという状況では、半減していようがなお衰えない意義を求めて病理解剖をやったりするのだが。


カンファがあると、病理解剖に至った患者のあれこれは、非常に深く検討されることになる。その結果は、この先「ある患者」と同じ病気になる人への対処法として結実することもあるし、医療者たちにとっての大きな教育の材料ともなるし、さらに言えば、


「患者の経過の最中、主治医、スタッフ、そして家族がどうにも腑に落ちなかった部分への答え」


をあきらかにしていくことにつながる。



A病ならばB薬、のように、診断と治療が一対一対応していたならばどれだけ楽だったろう。

医療は決して一本道ではない。だから、振り返って見てみると、あそこではなぜこのような変化が起こったのか、あのとき患者はなぜ妙に良くなったのか、あのときあの治療はなぜあまり効かなかったのか、といった疑問がいっぱいあるものだ。

そういった疑問を、「病理医による解剖」だけで解き明かすのは、実際、難しい。しかし、「解剖までして、濃厚なカンファをみんなでやる」ことまでたどり着けば……かなりのことが見えてくる。


これが病理解剖の効能。これが病理医が病院にいる大きな意味なのだ。

2022年6月1日水曜日

変わった社会

思慮深い教員と話していると、「変わった学生」に対する大人達・教師側の反応が見えて、興味深い。



一例として、

「あの子は変わった学生ですから要注意ですよ」

といった言葉が教員室内でささやかれている場面を考える。非常によくあることらしい。



その学生が「変わった」と言われる理由は、「よくわからない理由で授業を休もうとする」であったり、「課題の提出が遅れたときの言い訳がへん」であったり、「講義に対する注文の仕方が独特」であったりする。


おかしないいわけや申し開きをする、教師の言うことを聞かずに刃向かってくる。


ところがこれらはよく考えるとお互いさまだというのだ。少なくとも、ぼくと話しているその教員は、そのように示唆している。



学生が「よくわからない理由で学校を休む」ことに対して、すべての教員がその理由をわからないわけではない。「ああ、そういうことはあるよね」と、学生の気持ちを理解する教員もいる。しかし、学生側の理由をあっさりと「自分にはわからない」と断じる教員もいる。


「課題が遅れた理由はそれなりに理解できるから、次に期限内に提出できるようにするための対策をいっしょに考えよう」と接する教員もいる一方で、「決まりは決まりなのだから期限内に出せなければそれは普通に悪であり減点」ときっちり裁く教員もいる。


教員側に出された注文に対し、「この注文が出るくらいには問題意識を持っているのだな」と、注文の裏にある心の動きを探りに行く教員もいれば、「教員に対して意見をする時点で学生として不適格」と言わんばかりの態度をとる教員もいる。




このように列挙されると私はいろいろ考えてしまうのだが、そこですかさず話し相手が言ったのが、次のような言葉だった。


「つまりこれって、教員側が変わっているんですよ。変人という意味でなく、『千変万化』の『変』です。教員も人間なので、当たり前のように多様です。学生に対する態度が、教員ごとに『変わって』いる状態ですよね。逆に言えば、教員室で話題にものぼらない『普通の生徒』とは、なるべく多くの教員に目を付けられないように個性を殺して気配を消している学生です。変わった教員の目に留まらないようにすることが、教員室から見た『普通』になる。」


なるほど。私はうなった。できるだけ自分の物差しだけで全てを判定したい人が教員をやると、自分の基準から外れた学生を「変わった子」として片付けてしまうのだろう。まったく困ったことだ、そういう人は教員に向いてませんね、と私が言うと……話し相手は、わりとはっきりとした口調で言った。


「必ずしもその教員の『とが』として片付けるべきでもないと思います。それだと、教員側が多様であることをもまとめて否定してしまいます。学生の多様性を受け止められないことは確かに問題ですが、返す刀で教員側の多様性を縛ってしまうのも、やり方として過剰ではないでしょうか。」


私は思わずだまりこんでしまう。そこまで考えていなかったからだ。話し相手は続けて言う。


「いろいろな受け止め方をする人がいるのが社会であり、相手と自分とが違う価値観で生きていることに気づけない・気づかないままの方がラクだという価値観でしか生きられない人もいます。それによって害を被る人がいることに目をつぶってはいけませんが、かといって、そういう生き方しかできない人をすぐに否定するのも不寛容です。」


でもそれでは結局、「変わった学生だよ」と言われたほうがかわいそうではないか。


「はい、そうです。教育現場に限らず、社会ではかわいそうなことがいっぱい起こりますね。だから、そういうかわいそうなことを言われた人に対しては全幅のサポートをしなければいけません。そういうものだよね、と言ってあきらめてはだめです。そして、『罪悪感なく他人にかわいそうなことを言ってしまう人』にも、責めるよりもむしろサポートをしなければいけません。」



呆然としてしまう。しかしゆっくり考えて、こうして文章にして読み返すと、言いたいことはかなりわかる。「ひでえ大人はいるよな!」と言う言葉の持つ暴力性、というところまで私はこれまで考えていなかった。そのひどさを無視しろというのではない。そこを「ひどい」で考え終えてしまうことが短絡だ、ということなのだろう。わかってきた気はする。ただし、わかりはじめたばかりでもある。