2020年10月22日木曜日

じりじりと溜めている

先日先輩と「いんよう!」(ポッドキャスト)で話していたことなのだけれど、先輩は何か文章を書くときにプロット的なものをあらかじめ決めておくそうだ。そうしないと途中で話がうまく転がらなくなる、とのこと。

それに対して、ぼくはとにかく一行目を置き、そこに連結させて書くタイプの書き方をする。

たとえばこのブログは完全にそうだ。具体的に言うと、今日の記事もそうだ。頭の中に何も無い状態から、先ほどたまたま「じりじりと溜めている」という文章がポンと出てきて、同時に、言語になっていないモヤモヤとしたものの手触りが浮かんだ。こういうことが一日の中に何度かある。で、そのとき偶然PCの前にいれば、ああこれはブログでいけるやつだな、とわかるので、浮かんだ10文字程度の謎フレーズ+モヤモヤの感触から「連想」される文字を、何も書かれていないブログ記事入力欄にキータッチする。今日はそれがたまたま

「先日先輩といんよう!で話していたこと」

だった。

この書き出しは、さきほどの「じりじりと溜めている」や「モヤモヤ」とは一見つながらないように思われるかもしれないが、ぼくの脳内ではシナプスの連携のふんいきが近い。たぶん似た場所で駆動している。もう人には説明しづらいんだけれど、ぼくの中ではなんとなくわかる。だってぼくの脳だから。

フッと連想されたフレーズに、カギカッコをつけてカッコをつけて、文章的な体裁を整えているうちに、あ、やっぱ書けそうだな、という気持ちになって、次の文章を連想ゲーム的につなげる作業に入る。

「先日先輩と「いんよう!」(ポッドキャスト)で話していたこと なのだけれど、先輩は何か文章を書くときにプロット的なものを」

このあたりで実は思考がスパークしており、モヤモヤが目の前で無数に凝集して、集まった点が全部光って言葉やフレーズになって具現化して、地面にポトポトとおちる。モヤが雲になってあられが降って地面に積もっていくかんじ。霧のつぶひとつひとつがエピソードや単語になったら、思考のピントをそのつぶつぶに順番に合わせていく。手に取れそうなものをゆっくり組み立てていくと文章になるし、モヤモヤ全体をぼんやり見通すと文章のオチもなんとなくわかる。今日の場合、「じりじりと溜めている」というフレーズと「先日先輩と」が先に結晶したあられであり、これらを見て、ああそうか、ぼくは今日、文章の書き方についての話を言語化するのだな、と俯瞰して納得する。この時点で今日の記事を作る部品の一覧はだいたい思い浮かんでいる。ただし、構成はまだ思い浮かばない。

構成が思い浮かぶということは目次が思い浮かぶということだ。商業的な文章を書くときは、とりあえず一行目を書いて、イメージが具現化してあられが降り出したら、その時点でいったん文章を作る手を止めて、目次を作る。

あるいは、この段階で編集者に目次を与えてもらうこともある。というか最近書いた本は基本的にそうやって作っている。ぼくの中でひそかにモヤモヤがあられになった時点で編集者と本の雰囲気を相談し、目次をもらって、あられの中から使えそうなものを拾って組み立てると一冊の本になる。そうやって作った本はもはやぼくの単独作品ではないが、多くの人に読まれることを意識してきたプロの編集者が作った目次は必ずいい本に結実する。



本格的に書く前に目次を作るってのは、「あらかじめ何を書くかを決めてから書き始める」ことと同じじゃないの、と思われるかもしれない。

けれどもぼくの中では微妙に違う。とにかく最初の一行やワンフレーズが唐突に出てこないと、そこからつなげていくという感覚がないと、ぼくは本能的に……というか嗜好性として自分の書いた物に飽きてしまうのだ。

執筆中に思考の衝突がない文章を書きたくない。あらかじめ文章の展開を完全に考えてしまうと、それはもう書かなくてはいいではないか、と思う。だってぼくの中では結論して解決してしまったのだから。プロットが練られすぎたものを書こうと思ったことが何度かある、たとえばそれはSNS医療のカタチのnoteなどで一度やろうと思った。しかし、執筆のモチベーションが急激に低下して途中で消してしまった。「展開が完全には決まっていない文章」じゃないと、楽しく書けない。楽しく書けないものは続かない。もちろんあくまでこれはぼくの場合ではある。世の中にはぼくじゃない人のほうが多い。

むかし、「ミシシッピー殺人事件」というゲームがあって、非常に難易度が高く理不尽なクソゲーだったのだけれど、あのゲームでは登場人物に話を聞いた後、なんかよくわからなかったなーと思ってもう一度尋ねると「さっきはなしましたよ」「もういいました」とにべもなく断られ、重要な情報が二度と手に入らない。なんてひどいゲームなんだ、と笑ってしまうわけだが、実際ぼくの脳というのはしょっちゅう「さっきはなしましたよ」「もういいました」「けつろんはでました」「それはもうすんだはなしです」と言う。ヘンな話だが自分の思考相手に自分の脳がそう語る。先が見えた話をそれ以上深掘りしているひまがあったら、まだ見ぬモヤモヤを言語化するほうに脳のリソースを使いたい。究極的には本能のレベルの話をしており、ここはおそらくなかなか変えようがない。

おそらくぼくの文章というのは、エッセイはおろか教科書や論文を含むあらゆる学術的な文章もすべて、誰よりも自分のモヤモヤを解決するため、自分のために書いているごく私的な日記の延長に過ぎない。だから仮に今の病理医という仕事をやめてしまうと、文章だけでは食っていけないだろう。「誰かがよろこんで読むために」「誰かがくるしんで読むために」「誰かがにやりとしながら読むために」「誰かがぐっと考え込むために」書く文章には、もっと丁寧で重厚な計算と下準備、やさしさ、ふんばる力があったほうがいい。プロットをきちんと汲んで、「こうお膳立てをすればあなたにはこの豊潤な世界がすべて伝わるのではないか」と考える作家の仕事を、ぼくは心から尊敬している。「ああ、そうやってあなたのすばらしい脳内風景をぼくに見せてくれたんですね」と、おかざき真里先生とか恵三朗先生とか、ああマンガ家ってみんなそうなんだよな、きりがない、作家もエッセイストも哲学者もみんなほんとうに字の一画一画にまで魂が籠もっていて感動してしまう、一方のぼくはやはり作家ではない。仕事として文章を書いているかどうかとは関係なく、性根の部分がどうしても、「自分のモヤモヤのためにだけ文章を書いている」。



田中泰延さんの「読みたいことを、書けばいい。」という名著があり、自分もまったくこれをやるべきだなと感心した。しかし、ぼくの場合はさらにもう少しひねくれてしまっている。自分が書きあげたものは、すでに自分の中のモヤモヤが文章になっている、文章化することに成功したプロダクトなので、できあがった瞬間からもはや読みたくない。ぼくは自分の書いたものをあとから見直すのが好きじゃない。執筆中は、「こんなことが書いてあったらぼくなら読みたくなるだろうな」と思って書いている、それは確かなのだ、その意味では「読みたいことを、書けばいい。」の精神をがんばって突き詰めているのだけれど、「心の中にあって読み解きたいけれど読めない状態のものを、読める状態にするために書く」こと自体が目的だったため、書き終わったら別にもう読まなくていいやと思う。だってそのはなしは、「もういいました」。





頭の中で言語化されていないモヤモヤを溜めている。じりじりと溜めている。言語化された順番にぼくに飽きられていく。だからとにかくモヤモヤを溜めておく。ときおりそこからポンと生まれてくるフレーズがあり、そのフレーズに手を出せば芋づる式に、「先日先輩と」みたいな単語がボロボロボロボロ具現化して、それらをつなぎあわせていくと文章になり、書き終わって、飽きて、次のモヤモヤを探す。じりじりと溜めているから、まだ書ける。じりじりと溜めている。能動的に? いや、中動態的に。じりじりと溜めらさっている。一行目を書くとスッと出て行く。便秘に浣腸みたいなもんだ、と、後藤隊長は言った。なんだこれ浣腸か。

2020年10月21日水曜日

病理の話(466) 教えてもらわないとわからない

ベテランの小児科医が、大量の論文を持ってデスクにやってきた。人間は察する動物である。何も言われなくてもまずは論文の束を受け取って頭を下げる。


「ありがとうございます! 読みます!」


説明を受けながら、年代順に並べ替える。ぼくはある領域の論文をまとまった量読むとき、発行された時系列順に読むことが多い。まあ、時と場合によるけれど。


8本ほどあった論文を並べ替えている間、小児科医は次のように言った。


「この患者さん、この患者さん、あとこの患者さんの病理所見を、この論文に書いてあるポイントを見ながら、もういちど見直してほしいんです」


○年前、△年前、1○年前。むかしの患者さんたちの病理番号が次々とリストアップされている。


ぼくは答える。「わかりました! 勉強して見直します」


「どうもすみません、お忙しいところ……よろしくお願いします」





病理医は患者から採取された小さな組織を元に「診断」をする。このとき、細胞をどのような見方でチェックして結論を下すか? それは個々人の裁量による……わけではなく、多くの先行研究者たちが「たぶんこの項目を見ておくとよいよ」と調べてくれた意見を元に行う。主観バリバリで評価してはいけない。もっとも、完全な客観というものはこの世の中には存在しないのだが。


先達がすでに開発したチェック項目を見る。臓器ごとに異なる。病気ごとに異なる。膨大で、それぞれに細かく決まっている。「だから」、病理診断医という専門職が存在する。


さて、このチェック項目、時代とともに変わる。増えていく。

「これまではみんながあまり着目していなかった、細胞のこのような変化や、出現している細胞の種類、量などを、もうちょっと違う観点でみたほうがいいよ。」

このような論文が、今この瞬間にも出続けている。

科学というのは基本的に後退しない。あとになればなるほど診断が鋭く、かつ細かくなる傾向にある。


すなわち、細胞をみる病理医は、もちろん、全身のありとあらゆる臓器について、細胞の見方を時代とともにアップデートしていかなければいけない!


建前はそうなんだけどぶっちゃけそんなの無理だ。全身にどれだけ細胞があると思っているのだ。頭皮から目、鼻、耳、口、くちびる、口の中、舌、舌のうらにある唾液腺、歯茎、のどちんこ、扁桃、のどの粘膜、うー本当はこうやって全身のあらゆる臓器の話をしようと思ったけれど、まだ口の段階ですでに飽きてしまった。そもそも目だって鼻だってもっと細かく分けられるし……。


では病理医はどうするか? ある時点で自分が勉強した項目に満足して、そこからは時代がどう動こうが、自分の信じた診断方法で延々と細胞を見続けるのか?


平成15年の基準で病気を診断しても、99.9%くらいは病気の本質に迫れる。しかし、令和2年の基準で病気を診断することで、99.99%くらいまで確度が上がる。平成15年の知識でいつまでも診断していることは、0.09%分、患者の不利益になる……。


微々たるもんじゃん、と言ってはいけない。


ときには、平成15年の基準で行う診断が、40%くらいしか病気の本質をえぐっていないこともある。こういう難しい病気は、令和2年の基準を用いても、43%くらいまでしかパワーアップできていないものだ。しかし、この3%を積み重ねていくこと、解像度をいつまでも上げ続けていくことで、昨日は治らなかった患者に対して、明日もう少しましな治療ができるようになるかもしれない。


すなわち病理医はアップデートを怠ってはいけない。しかしこのアップデート、膨大である。ウィンドウズアップデートよりも項目が多い。じゃあどうしたらよいか?



一緒に仕事をしている臨床医たちに手伝ってもらう。もうこれしかない。自分の努力でがんばれる度合いには限界がある。ほんとうに専門的な、マニアックな、高度で難しい部分については、あらかじめ臨床医に


「何か進展があったらいつでも教えてください、その領域の最新の論文をぼくに教えてください」


と言っておく。これしかない!!


先ほど小児科医がもってきた論文はいずれも、病理学の論文ではない。小児科系の雑誌のうち、ある特定の病気の、さらに込み入った病態について述べられた、小児科医向けの論文ばかりだ。さすがにそういうところまでぼくは普段カバーしていない。


だからありがたい。これを小児科医がぼくに持ってきたということは、「この領域の最新の診療をするために、病理医はここまで知っておいたほうがいい」ということだからだ。






8本の論文を読んでいく。難しい。知らないことが書いてある。それを知るために別のものを読む。難しい。病理のこともちゃんと書いてある。ここは見覚えがある。聞いたことのないチェック項目がある。えっ、そんなとこまで見たほうがいいのか。いやまてよ。論文の著者たちも、あまり言い切っている雰囲気でもない……つまり、これは、「試しにやってみました」ということか。


一年に一度診断するかしないか、くらいの頻度のマニアックな診断について、100年分くらいのボリュームを一気に勉強する。少し目が変わった気もする。さあ、この目を用いて、もう一度、過去に診断した標本を見直そう。



……うーん……この論文、ほんとうなのかなあ……。あまりそうは見えないなあ……。


あっ、この所見は、大事かも知れない。本当だ! でもこれって意味がある所見なのかなあ……。





一週間後に小児科医と話す。おもしろい論文だった、実際に顕微鏡も見てみた、あまりそのまま受け取れるような内容ではないのだが、この項目とこの項目については引きつづき検討する価値があると思う、ただし過去の診断をひっくり返せるほど力のある論文ではないようにも思う……。


小児科医が頭を下げる。ぼくはそれより低く頭を下げて論文を持ってきてくれたことへのお礼を述べる。最後は土下座合戦になる。

2020年10月20日火曜日

ほめられが発生

書いたっけ?


書いたかもしれない。


まあいいか。ほめられた。それも、声を。


ある企画で、ぼくはナレーションを担当することになった。オープニングとエンディング部分で少ししゃべる。その収録を先日やったのだが、どれもこれも一発OKであった。よかった。


で、ほめられた。


「いやーいいですね、すばらしいですよ」


そこで反射的に謙遜しそうになり、そこからハンドルを切って、このように答えた。


「いやーそれほどでもな、……


……


はい、これでみなさんのお役に立てれば何よりです」






これはたぶん成長だと思う。これまでのぼくは誰かといっしょに仕事をするときに謙遜ばかりしていた。


謙遜しないのは本職の病理診断と画像・病理対比のとき。ここでは自分の仕事に自信があることを前に出さないと診断自体の価値が下がるから、「ぼくの診断は100%(の責任を負う覚悟で発言しているもの)です。」とはっきり言わないといけない。


しかしそれ以外の、物を書くとか、人前でしゃべるとか、絵を描くとか、なんでもいいんだけど、もろもろに対しては謙遜で何重にもくるんでいた。


それをやめた。今回、瞬間的に思ってやめた。これからはやめる。




お金をもらっていないから。


本来の仕事じゃないから。


訓練をしたことがないから。


自分に自信がないから。


そういうのとは関係なく、ほめられたら、「ありがとうございます」と返す。そこからはじめたほうが、中年のぼくの周りはどうやらうまく回るのだ、ということをばくぜんと考えた。



ただそれだけのことにたどり着くにも膨大な試行錯誤が必要だった。振り返って、あそこで気づいていれば、と思うことが、なくもない。


でも無理なのだ。ぼくはほかにも「ぶつかって、気づいて、変えること」をいっぱい通り過ぎてきた。すべては順番だったのだと思う。ほかに変えるものを次々変えている中で、今回たまたま、「謙遜の使い方」を少しアレンジした。まあ、ようやくだなあ、というところである。

2020年10月19日月曜日

病理の話(465) サイズをはかってください

依頼が来た。「脂肪肝」の肝臓に含まれている、脂肪のサイズを測って欲しい、という。


うわあーと笑ってしまった。なるほどなあ。言いたいことはわかる。




脂肪肝という病気は、肝臓の細胞に脂肪が少しずつたまって、肝臓そのものの機能をわるくしてしまう。この「脂肪がたまる」というのがわかりにくい。コップに水を満たしていくようなイメージとは異なる。


いつものごとく例え話をする。肝臓は人体の中では加工工場として働いている。みなさんも考えたことがありそうなことを言うが、たとえばリンゴを食べたとき、そのリンゴがただ細かく砕かれて体のあちこちに栄養として配分されるわけではない。そのままではリンゴに過ぎない。人間はリンゴではない。リンゴちゃん以外は。なので、リンゴから摂取した成分を、人体にあわせて加工しなければいけない。


そこで登場するのが漁協に隣接した缶詰工場……じゃなかった肝臓である。腸管からやってくる血液をいったん引き受けて、中に含まれている栄養成分をさまざまな形に加工する。肝臓は人体という究極のヤベェロボが持つ最高の臓器のひとつなので、実は加工だけではなく、生産も廃棄もいろいろ担当するのだけれど、本項ではとにかく加工を行うこととする。


で、さらにここを細かくいうと、肝臓は正確には工場1個ではなくて「工業地帯」である。肝臓に含まれている数百万個か数千万個か、知らんけど、とにかく大量の「肝細胞」のひとつひとつが工場なのだ。だから肝臓は工場の寄せ集めである。人体ってのはとかくこのように、機能をもつ細胞が寄り集まってひとつの臓器を作って、効果を上げる。


で、だ。肝臓に詰まっている無数の肝細胞それぞれで、加工の作業が行われるのだが、このとき、加工しきれなかった分の脂肪が「不良在庫」として、工場の中にたまっていくことがあるのである。


工業地帯をドローンで見てくれ。


工場が無数に寄り集まっている。


そこをぐっと拡大してくれ。


敷地内に、「脂肪」を詰めたポリ袋がうずたかく積まれている。


このポリ袋、長い間放置していると、やぶれるのだけれど、脂肪は液体というよりもスライムに近い形状をしているので……


工場の敷地内にある脂肪スライムがたまっていくと、そのうち「合体」してキングなスライムになる。すなわち肝細胞内の脂肪はだんだんサイズがでかくなっていく。


……といっても! あくまで、工場の細胞の「中で」増える。


だからドローンで上から見ると、工場一つ一つの色合いが、だんだん変わって見えるかんじだ。山々の紅葉が点々と色づいて、いつしか全体が紅葉するように……。




現代、脂肪肝というのは、肝臓の細胞のわずか5%が脂肪をもちはじめた状態で「気を付けましょう」と言われる。山の木々の5%が色づいても普通は紅葉とは呼ばない? いや、風流な人は、わずかな色味の変化をみて、「ああ、もう秋が来るなあ」としみじみするだろう。脂肪肝というのはけっこうやばい状態なので、早めに秋を予測するように、早めに捕まえることが大事なのである。




さてと冒頭の質問だ。ある画像検査をやっている人から依頼が来た。


「脂肪肝」の肝臓に含まれている、脂肪のサイズを測って欲しい、という。


うわあー。どこから説明しようかな。


工場の中にはさまざまなスライムがあることを説明するか。脂肪肝といっても木々の色合いは5%から80%以上まで幅広いんだけどどのへんを説明したらいいだろう。


質問の主は「画像検査」に役立てるためにぼくに質問をしているのだから……。






「承知しました。ではまず、何%くらいの脂肪肝の話にしましょう。脂肪(スライム)のサイズが大きいバージョンで測りますか? ちいさい方も測りましょうか。」


こうして、病理を人の役に立てていく。

2020年10月16日金曜日

圧を逃がし血流を確保し少しだけ風を通すということ

 デスクで使っているパソコンは2台あって、1台は公費購入のデスクトップ。こちらは患者の個人情報が大量に入っている診断用のもので、インターネットには接続されておらず院内ネットワークにしかつながらない。


そしてもう1台はノートPCでこっちはインターネット用、さらには院外での仕事のすべてを叩き込んである。論文、研究会の解説、雑誌や単行本の原稿など。バックアップは3重にとってあって一部はクラウドにも保存してあり、今ギガンテスに踏み潰されてもデータは生き残る(ぼくは死ぬだろう)。



ノートPCに向かっている時間が長い。デスクトップPCよりも長いと思う。別に病院の仕事をないがしろにしているというわけではなくて、診断用のPCというのはつまり「診断を入力するとき+α」にしか使わないからだ。情報検索、考えること、外部からのコンサルテーションに答えることなど、多彩なノートの仕事にデスクトップが追いつくわけがない。というわけで自然とノートPCの細部にこだわることになる。



昔はとにかくPC本体のスペックを高くすることに必死だった。そうしないと仕事にならなかった。でも今の時代はパワーポイントを何個開いても、超音波や内視鏡の動画をいくつ再生しても、動作にほとんど支障がない。正直、家電屋で売っているお仕着せのPCを適当に買ってきても十分に仕事になる。こういうことを言うとセミオーダーのPCを選んだ方が安いですよ的なおせっかいが飛んでくることがあるが、ぼくはPCを選んだり作ったりしている時間を省略してその分長く働いたほうが得だと考えるタイプの人間だ。多少割高でも置いてあるものを買ってすぐ使えるならそのほうがいい。ただしマウスとキーボードだけは別で、この2つは買い足す。けっこう頻繁に買う。デスクワークが長い人はみんなそうだろう。外付けのキーボードを使うことでノートPCのモニタから距離を離して、目や肩、背中への負担を減らす。


今日気づいたのだが、ぼくはこの外付けキーボードを、毎日微妙に違うポジションで使っている。今日はモニタを正面において少し左側に傾いたかんじで入力をしているし、昨日は逆に右側に10度ほど傾けていた。ときどきはひざにのせてしまうこともある。前後の間隔も毎日異なる。


まるで牧場の牛が毎日少しずつずれた場所で草を食むように、ぼくはデスクの上で「昨日のキーボードの痕跡」や「昨日の手垢」をかわすようにポジションを少しずつずらしている。そうやってもくもくもくもく、毎日少しずつ違う手の角度、少しずつ違うクビの角度、椅子の角度、腰の角度で、昨日とほとんど同じようなことを違う角度から眺めてみたらどういうことになるだろうかと、それっぽく傾いて自分の目線を変えているのだと思う。でもやっていることは、褥瘡をふせぐために体位交換をしているのと同じではある。

2020年10月15日木曜日

病理の話(464) 薬が違うんです

 血液の中にまぎれて流れている細胞、有名なものが3種類ある。


白血球。赤血球。血小板。


で、この、「白血球」というのにもまたいろいろある。こういう話をすると人が逃げていくので、あまり詳しくは語らないが、好中球、リンパ球、好酸球、単球(マクロファージ)、NK細胞などがあって、このうちリンパ球は更にTリンパ球とBリンパ球に分かれ、さらにTリンパ球はキラーTとヘルパーTとレギュラトリーTに分かれる。なおNK細胞はTリンパ球とどこか似ていて



まあいいわ、これじゃあまりにひどいだろう。もうちょっとわかりやすくする。



血管の中には3種類のスポーツ選手がいて、それぞれ「サッカー」「ラグビー」「相撲」である。


で、この、「サッカー」選手にはいろいろいて、フロンターレ、グランパス、セレッソ、ガンバ、レイソルなどがあって、このうちレッズの選手はさらに攻撃陣と守備陣に分かれ、さらに攻撃陣にはフォワード、ウィング、ミッドフィールダーなどに分かれる。なおセレッソはガンバとどこか似ていて


余計にわかりにくくなった気もする。そもそもラグビーは1種類しかいないし。




さて、これらがいっぱいあるというのは、それだけ人体の仕組みがフクザツであるということなんだけれども、今日はここから「がんの話」につなげてみたい。


「がん」というのもまたひとつの病気ではない。胃がんと大腸がんと肝臓がんではそこにある細胞が異なる。胃がんはたいていの場合、胃にもともとある細胞の「ふりをしている」がん細胞が増えるし、大腸がんは大腸にもともとある細胞の「ふりをしている」がん細胞が増える。


そして、「白血球のふりをしている」がん細胞もあるのだ。それが白血病や悪性リンパ腫と呼ばれるがんである。


これらは「白血球の性質をもったがん」だ。先ほど書いたように、白血球といってもいろいろあるので、つまりは、


・B細胞の性質をもった悪性リンパ腫


・T細胞の性質をもった悪性リンパ腫


があるし、もっといえば、


・キラーT細胞の性質をもった悪性リンパ腫


・NK細胞とT細胞の性質をもった悪性リンパ腫


というのもある。さらにさらに、


・B細胞の中でも形質細胞といわれる細胞の性質をもった悪性リンパ腫


もあって、究極的なことを言うと、


・B細胞になるかならないかというまだ幼いかんじの性質をもつ白血病


というのもある。




めんどくさい! なんで! がんはがんでいいでしょ? と思うかもしれないが、これを必死で分類するのには明確な理由があるのだ。


医学は進歩を続けることでどんどんオタク化している。


「悪性リンパ腫のうち、B細胞の性質をもっていて、しかもCD20という物質をもつものにだけ効く薬」や、「悪性リンパ腫のうち、B細胞もしくはT細胞の性質をもっていて、さらにCD30という物質をもつものにだけ効く薬」が開発されているのだ。


これは例えて言うならば、「サッカーJ1リーグの、セレッソ大阪に所属する、攻撃的ミッドフィールダーの選手が罪を犯したときにだけ出動する警察官がいる」みたいなものである。この警察官は、横でフロンターレのゴールキーパーが軽犯罪を犯していてもいっさい取り締まらないし、なんならセレッソ大阪の守備コーチが特別背任などを犯しても(つまりは同じセレッソだったとしても)一切関与しない。あくまで、


”セレッソの”


”ミッドフィールダーの”


選手でなければ捕まえようとしない。もっと言えば、今の医学は、さらにこれだけの分類では飽き足らず、


”セレッソの”


”ミッドフィールダーのうち特にツートップのシャドー的ポジションで動きがちな選手が”


”ワークマンで購入したロープを使って人を転ばせたときに”


のみ逮捕する、みたいな「細かすぎてつかまらない選手権」を開催している。




と、このようなことを逐一説明していると外来で日が暮れてしまうので、医者はよく、

「ちゃんと病気のことを調べます。薬が違うんで」

とだけ話して、あとは病理医に分類仕事をまるなげすることになる。

2020年10月14日水曜日

積み動画に罪はない

積み本が苦手で、買い漁った本はなるべく早く読みたいと気が競る。


でも本って飛ばし読みするとまったく頭に入らない。一割だけ役に立つ読み方、みたいなのって、ありそうに思うけど、時間に耐えられない。「最初の数章だけ読んだよ」みたいな本は、一ヶ月もしないうちにほとんど忘れてしまうことのほうが多い気がする。だから、あせらず、じっくりと読んでいくしかない。


そういうとき、積み本の表紙や背表紙のことを、なんとなく覚えてしまう。ぼくは未読の本を決まった場所に積む(本棚には挿さない)んだけど、本棚にあるときよりも積んでいるときのほうが、表紙のデザインやフォントなどを何度も見るためか、印象に残る。


順番を後回しにした本の表紙のことをずっと覚えている、ということがよくある。厚めの哲学書とか、網羅系の医学書に多い。


その意味では「積ん読も読書」なのだな、と思う。たしかに本というのは、買ってしまえば読まずとも、その人の心の中に居場所を得るものだ。「買うまでが読書」とはよく言ったものである。




しかし同じようにはいかないものがあって、それは何かというと、動画だ。


YouTubeをはじめとする動画サービス。


見ようと思った動画をチェックして、チャンネル登録をしても、未視聴のままでいるうちは、サムネや動画のタイトルが頭に残るということはない。


「積み動画」はうずもれていくだけなのである。……あくまでぼくの場合、だが。


動画は見たいものをすぐに見ないとすぐに過去になる。テレビ番組の録画もしなくなった。


積み本は急いで消化しようと思いつつ、その実、読まなくてもどこか安心している部分があるのだけれど、動画はそうはいかないのである。


積み動画というのはできないんだなと思う。




もちろん世の中には積み動画をするタイプの人もいると思うのだが、それはたとえば映画のブルーレイであったりサブスクであったりするのだと思うけれども、人気のYouTuberの動画をまとめて見ようと思う人というのはそれよりはるかに少ないような気がする。


だってYouTuberというのは常に新作を撮っているからね。過去を見ていない人でもすぐに見始められるような動画を、毎週、毎日のように。



未読の本から得ているナニモノカを、未視聴の動画から得ることは難しい。


そしてぼくは今日も、「どうせ見られないだろうから」と言ってYouTubeのチャンネル登録を一つ解除し、本を一冊買うことになる。