2021年6月30日水曜日
ちょろい召喚魔法
2021年6月29日火曜日
病理の話(550) どうしても自分で見たいという臨床医の話
たとえば消化器内科医、中でも胃腸内科の医者たちは、外来で患者と対話をし、病棟に入院した患者の診療計画を立て、ときには内視鏡室で患者に胃カメラや大腸カメラを施行する。
この、仕事のごく一部……。
最後の「胃カメラや大腸カメラを施行する」の続きとして、「カメラの先から伸ばしたマジックハンドで、粘膜をつまんで採ってきた場合」に、ようやく、病理が役に立つ。とってきた「細胞」を見て診断を下すのが、病理医の仕事だからだ。
逆に言えば、消化器内科医はそうそうしょっちゅう病理に用があるわけではない。
「細胞をとらなければ仕事にならないシーン」というのは、そんなに多くないのである。
たとえば患者が「胸焼けがする」と言ったら、まずやるべきことは詳細な聞き取りだ。事情聴取? いや、医療面接、と言おう。問診という言葉もあるとおり、話を聞くことは「診」である。診療の要。
どういうタイミングで胸焼けがするのか。朝目が覚めたときか。食前、空腹時か。食べ終わったあとか。毎日するのか、たまになのか。胸焼けと本人が表現しているのは、胸の違和感とは違うのか。どれくらい症状は持続するのか。どういうことをするとその胸焼けは良くなる・悪くなるのか。たとえば水を飲んだら落ち着くか。
最近の暮らしぶりはどうか。体重は増えたか。お酒はどれくらい飲むのか。タバコはどれくらい吸うのか。
これまでにどのような病気にかかったか。家族から何か体調について言われたか。
さまざまな情報から、患者が抱えているトラブルが総合的に浮かび上がってきて、医者は処方を考える。
「細胞をとって検査しましょう」という結論が毎回出てくるわけではない……というか、胸焼けのケースでは細胞をとる意味はあまりない。
同じようなことは、「便秘」にも言える。便秘で苦しんでいる患者の腸から細胞をとっても、わかることは(その時点では)あまりない。
もちろん、さまざまなシチュエーションの「あや」というものがあり、あっ、これは細胞とる案件だな、と主治医が判断したら、胸焼けだろうが便秘だろうが、即座に細胞が採取されるのだが、それは比較的まれだということだ。
胸焼け、胃もたれ、便秘、下痢。頻度が高いトラブルでは、一般的に、消化器内科医は病理に用がない。
となると、彼らにとって、「病理」というのはたまーに訪れる相談室みたいなイメージだと思う。
さて、そんな胃腸の医者たちが、いざ病理に何かを頼むとき、すなわち意を決して相談室を訪れるとき、ここにはある種の「文脈」が存在する。
「できものの正体を確定する」とか、「色変わりした粘膜の理由を知る」と言った感じで、病気がある程度目に見えているときに、その性状を判断してほしいという明確な目的がある。これは言ってみればシチュエーションが限定的だということだ。
すると、一部のドクターは、「いつもの自分のテリトリーと微妙に違うからさー、あとはそっちでやっといて」、てな気分になったりもする。ここから先は病理におまかせ、とばかりに。
病理診断報告書が書類でやってきたら、ささっと確認して、患者への対処を考えて、またいつもの「病理抜きの日常診療」に戻っていけばいい。
そう考える医者は、実際、多く存在する。
でも、一部の熱心な医者は、「せっかくだから病理にお願いした患者の一部も、自分で見ておこうかな」という気になるんだそうだ。
病理医に任せっぱなしにするのではなくて、自分でも顕微鏡を覗いて細胞のあれこれを知りたくなる医者。たまにいる。割合にすると、3割と言ったところかな。もう少し少ないかもしれない。2~1割くらいかも。ただし優秀な医者ほど、自分の患者に対する情報の評価を人任せにしない傾向があるように思う。ぼくは優秀な医者と付き合っているシーンしか記憶に残らないので、ほとんどの医者は自分の患者の細胞を自分の目で確認しにきているように錯覚しているけれど、ま、レアなほうかもしれない。
さて、病理に細胞を任せきりにしないタイプの医者は、病理医とわりと頻繁にコンタクトをとる。「こないだのあの人の細胞、見に行っていいですか?」というお決まりのフレーズをよく聞く。また、早朝や深夜に病理にいると、標本庫のほうの灯りがついて、誰か来たかなと思って見に行くと臨床医が自分の患者のプレパラートを探している、なんてこともある。そのあとは病理検査室にある共用の顕微鏡でじっくり細胞を見てなんだか感心して帰って行く。
ぼくはそういう臨床医たちと一緒に働くのが好きだ。一流の臨床医は、自分が扱う疾患の病理診断についてはある程度詳しくなっている。さすがに病理医のぼくより詳しくなれることは滅多にない(だから病理医という専門職が成り立つ)のだが、ぼくよりもはるかに身近に患者を見ている彼らの目線は、ぼくが細胞を見るのとはひと味違った光を発する。まして、横に病理医が一人ついて、軽く細胞の見方をレクチャーすれば、その臨床医はどんどん細胞が意図するところを読みとっていけるようになる。
臨床医にとって、「なぜ患者があのようになっているのか」を、自分で細胞を見ながら考えていく作業というのはとてもアトラクティブだと思う。そういう熱心な医者が、「なぜそう見えるか」を学ぶ際に参照すべき教科書というのは、最新のエビデンスに基づくガイドラインだけでは不十分である。細胞のことを知り尽くし、臨床の空気もよく知っている、ハイブリッドな著者が書いた「医療現場のナラティブ」を語った本でなければ通用しない。そういう本は探すのに骨が折れるが、全国津々浦々で臨床医とともに頑張っている病理医の本棚には、わりとこの特殊なタイプの医学書が多く並んでいる。
ぼくはこれまで様々な病理検査室で「病理医が選んだ本」を見て覚えてきた。病理医であれば必ず置くタイプの組織診教科書とは別に、ああ、これはおそらく、病理検査室を訪れる臨床医のために置いてくれている本なんだろうな、というのが見えてくることがある。そういう病理検査室の運営をしている病理医は、みな話がうまく、頭が良く、業績が豊富で(単にインパクトファクターが高いだけではなくカバーするジャンルが広かったりする)、何より人に好かれている。目指したいものだ。目指すしかないだろうと思う。
2021年6月28日月曜日
隠喩に抵抗する
一度ここで書いているかもしれない。まあいいや。
子どものころ、年に一度の頻度で、母の実家に帰省した。父親の運転で5時間前後である。ぼくは車の後部座席に弟といっしょに寝転び、ダイナマン、アンドロメロスなどのヒーロー歌謡曲が入ったカセットテープを聴きながら、窓の外を見ていた。
後部座席にふたりで寝転んでいられるくらいのボディサイズだったころの話、ということだ。
見上げる窓には曇り空を背景に、通り過ぎる電柱や店の看板の上端などがちらちらと映っていた。信号の少ない田舎の一本道を淡々と走っていると、電線が振幅の小さな正弦波のようにずっと波打って見える。ぼくはその波の上を滑っていく想像をしていた。
だいぶ大きくなって、インターネットで文章を読むようになってすぐ、電車の窓から遠くの屋根を見ながらその上に「忍者を走らせる」人が複数いるということを知った。ぼくは電線に忍者を走らせたことはなかったが、その感覚はよくわかった。
ぼくが世界をただ疾走しているだけではこの現象は起こらない。
他人の力で水平移動していること。
視線は進行方向に対して傾いていること。
切り取られた窓から見ること。
このような条件が重なったときに、移り変わる風景が一連の「動き」のように見える時間が訪れる。そこにぼくはうねり続ける波を見たし、ある人たちは忍者を走らせた。
他人の力で水平移動している状態で、視線を進行方向からそらして、切り取られた窓から……ああこれはメタファーになるなと思ったのだけれど、メタファーにしないほうがいいのかもしれないなと考えて、今日のブログは早々に切り上げることにする。人生を語るには早すぎる気がしたのだ。
2021年6月25日金曜日
病理の話(549) チールニールゼンとの戦い
超絶マニアックな話ですので肩の力を抜いて2,3回ジャンプして体をほぐしてから読んでください。
「肺がんの疑い」がある患者の話をする(架空の患者だ。しかし、今日の話に似た経過をたどる人はそれなりの頻度で存在する)。
肺に影があることがわかった。レントゲンだとわかりづらいが、CTだとはっきり見える。せいぜい、1 cmと言ったところか。小さい。
その影は、内部が空洞化している。穴のへりの部分に、何やら「できもの」が取り巻いているように見える。まるで小さなドーナツだ。
※実際にはドーナツの形ではなく、中が空洞になったピロシキやポットパイのような形状である。しかし、CTは輪切りにして断面を見る検査なので、ドーナツのように見える。
「ドーナツ」の周囲は毛羽立っており、なんらかの細胞が、周りの肺に向かって染み込んでいるところを想像させる。
もしかするとこの病変はがんではないかと考える。がんがマリモのように育ちながら周りに染み込んでいく過程で、マリモの中心部が荒廃して脱落し、内部がポットパイ的に空洞化することがある。
しかし、がん以外にも、このような形をとる病気はいくつかある。その代表が結核だ。
結核というと、咳をして、血を吐いて、沖田総司、みたいなイメージがある。しかし実際にはさまざまなスタイルをとる。必ずしもゲホゲホ咳き込んでいる人ばかりが結核なわけではない。無症状の結核というのも近年じわじわと増えてきている。
この小さな1 cmの病変が、がんなのか、結核なのか。
まるで治療法が違う。
1 cm程度のがんならば、肺をそれなりに大きく切り取り、肺の近くにあるリンパ節まで切り取る「手術治療」を選ぶことが多い(特に今回の、空洞をつくるようながんならば)。
しかし、結核だったとしたら、肺を切り取っても根治しない。抗生物質を投与しなければいけない。
大きな手術をするか? 抗生物質中心の治療をするか? がんか結核かでぜんぜん違う。じゃあ、どうやってこの二つを見極めるのか。
じつは、体に傷をつけないで行う検査では、この2つを厳密に見分けられないことがある。血液検査をしようとも、CTを丹念に見ようとも、「がんっぽい」「結核かも」まではたどり着くのだが、確定診断まではいかないのだ。
そこで……まず、手術をする。
ただし、激しく大きな手術をするのではない。1 cmのポットパイが含まれたところだけを、小さく切り取る。
そして、病理医にわたす。手術の真っ最中に。
病理医は小さく切り取られた肺を、ビニール袋で包んだまま、袋の口から手だけ入れて、ナイフでそっと切って、病変を目で見る。
空洞の中からとろりと、何かがとけて出た。そして……空洞の中に残る、ぼそぼその、チーズのような物質。
「あっ……結核の可能性が高いな」と判断する。結核の病変には乾酪壊死(かんらくえし)と呼ばれる、独特の変化が出るからだ。
手術室にそのことを伝える。外科医は病理医の見立てを信じて、この病変が「おそらく結核であろうと判断」し、それ以上傷をひろげることなく、肺の一部を切り取っただけで手術を終了とする。
もし、病理医の見立てが「がん」だったなら、外科医は手術をそのまま続行して、残りの肺をだいぶ大きく切除し、リンパ節もとった。
でも、病理医が「結核っぽい」と言ったから、肺を切る作業はそこまでにして、手術を終えた。
切り取ってきた肺の一部は、ホルマリンに漬けられる。しばらく置いておけば、結核菌の感染性はなくなり、安心して標本作製作業に入れる。
病理医は、プレパラートになった病気を、顕微鏡で、じっくり見る。まずは対物レンズを2倍にあわせ、4倍に拡大し、10倍、20倍、40倍、60倍まで観察。これとは別に、接眼レンズでも10倍の拡大がなされるから、最終的には60×10=600倍の視野での観察となる。
そこまで細かく観察して、いったい、何を見るのか? なんと、「結核菌」そのものだ。チール・ニールゼン染色という特殊な染色を使うと、結核菌は目で見られるようになる。
病理医がチール・ニールゼン染色で赤く染まる結核菌を見つけることができれば、手術中の見立ては正しかったということだ。ここまで、CTで空洞をみつけ、手術中に中を直接見て、チーズのような乾酪壊死まで確認したけれど、これらはいずれも、「犯人が引き起こした犯罪の痕」でしかない。犯人そのもの=菌体を直接観察したわけではない。
だから、病理医は最後に、結核菌を直接目で見て逮捕しなければいけない。
この作業は、相当しんどい。
目で見て明らかに病変がある1 cm大のカタマリ(内部は空洞化)。たった1 cmだが、600倍という高い倍率で観察すると、100視野か、200視野か、とにかく相当じっくり見ないと、全貌を見られない。
おまけに、この1 cmの範囲に、目でわかるような結核菌は……せいぜい、1個か2個、くらいしか見つからないのがザラだ。
体感でいうと、ウォーリーを探せの一番難しいやつでウォーリーを探し出すよりもちょっと難しいくらいの作業になる。しかも菌体はドチャクソに小さい。病理医になって10年未満の人だとほとんど見つけられないこともある。コツと根気と経験が必要な作業である。
病理医は、手術中に、「これは結核菌のしわざだ」と見抜いて、外科医に手術をそれ以上勧めなくていいよと進言している。だからその責任をとって、しっかりと犯人捜しをする。この作業はけっこうしんどい。ぼくはチール・ニールゼン染色を見る時間帯は午前中と決めている。疲労が溜まってきた夕方にチールを見るのは相当しんどくて、見逃すリスクが上がると考えているからだ。心を落ち着けて、体に元気がみなぎっていないと、結核菌探しははかどらない。そうやって、自分の判断に、責任をのっけてケリをつけるのである。
2021年6月24日木曜日
まちカドかがく
『まちカドかがく』を読んでいたら普通におもしろくて笑ってしまった。文庫の体裁で作ってもらって、いわゆる「普通の本」の顔をして本棚に収まっている。
編集者の介入がなく、それぞれの著者がそれぞれに書いたことがそのまま載っているだけ。文フリで出した同人誌のままである(ただし校正は入れていただいた。また、浅生鴨さんの前書きと後書き、対談を新たに載せてもらったので完全にイコールではない)。本としての完成度が低くなる部分があるとしたらそれは「編集の不在」によるものだよなと内心気を揉んでいたが、できあがったものを読んでみても違和は感じない。物語には物語の、論考には論考の、味わいと奥深さがきちんとそこにある。硬くなっていた肩をもみほぐす。
ぼくの書いた文章はボリュームでいうと10分の1くらいしかない。一番稚拙なぼくの小説が全体のクオリティを下げずに済んだ、と結論してもよい。ただ、ぼくは自分の書いたものを読みながら、いや、これは人に勧めても大丈夫だ、と途中から少し胸を張った。小説としてとりわけ優れた技巧があるわけでなく、市場との摺り合わせも一切行っていないが、ここには確かにぼくの精神世界が存在している。そんなものを自分が短くも書けたことに、なんというか、満足感というか達成感があるし、ぼくが普段使っている脳をそのままドライブさせて生まれた文章を世に出すことは、ツイートをしたり仕事相手と議論したりするのと同じように、これがぼくの回路だと世に話しかけるコミュニケーションの一環である。自分の回路、それはおそらくブラックボックスで中は見えない迷路なのだが、ここに何を流し込んだらどういうものが出力されるのかをさまざまな方法で見ることがひとつながりの人生になるのだと思う。
https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784991061462 (まちカドかがく 版元ドットコム)
版元ドットコムを貼っておいてあれだがKindle unlimitedに入っているとなんとこれ無料で読める。どういう仕組みなんだ。すごいな。
ぼくの書いた小説『FFPE』は、病理検査室で用いる専門用語であるFFPE (formalin fixed, paraffin embedded)、すなわち「ホルマリン固定+パラフィン包埋」に対する言葉遊びである。ホルマリンをフィクションに、パラフィンをプロットに入れ替えて、Fiction fixed, plot embedded。
ぼくらは日ごろ、外界からやってきた現象を五感で受け止めて脳に運び、各人が育てた虚構(フィクション)の中に浸漬して変性させて固定する。物理世界のそのものずばりを認識しているわけではなく、必ずお手持ちの物語をブレンドして変化させてから認識しているということだ。このことは、クオリアでもイデアでも物自体でも何でもいいが、科学と哲学がくり返し指摘してきた。
外部の刺激は変性させられるだけでなく、都合のいいように並べ替えられる。すり減るほどに日常遣いしている各人固有のプロットに沿って、ストーリーとして組み上げられる。アニメの絵コンテの順序を入れ替えるようなことが誰の脳でも起こっている。「もともとの配置」とは多少なりとも異なった物語が人それぞれに脳の中で完成する。矛盾など自覚できるはずもない。「言った言わないの議論」が進化の過程で解決できなかったのはなぜだろうと昔から不思議に思っていたが、なんとなく最近その理由がわかった気がする。一度理解したことがあるプロットに埋め込むことで、ぼくらは生(き)のストーリーにナレーション narrationを付けて読むことができる。それをナラティブ narrativeと言う。
Fiction fixed, plot embedded. 病理診断ではFFPEを遂行してしまえば検体の時は止まる。文字通り固定され、永久標本と呼ばれ、病院の倉庫で何年でも保管可能となる。では精神のFFPEを行わない、行えない人間がいたら、その人はいったい精神の倉庫をどのように整頓するだろう。じっさい、書いてみて、ははあぼくはこんなことを考えたかったのか、なるほどそういう回路を持っているよなあ、と我ながら感心したものである。『まちカドかがく』のFFPEでぼくは芥川賞を狙ったが、残念ながらノミネートには漏れた。一世一代の作品であり、せめて多くの人に読んでほしいなと願っている。
http://www.hanmoto.com/nekonosuf (まちカドかがく ネコノスの書店FAX用紙)
2021年6月23日水曜日
病理の話(548) モノクローナルジャスコ
体の中では、さまざまな細胞が複雑に入り乱れ、フクザツに活動している。この様子をイオンモールに例える。
イオンモールの中には服飾、雑貨、アウトドア、飲食など多彩なお店が揃っている。ただしこれらは完全にランダムに配置されているわけではなく、2階のあっち側には服の店が多いとか、3階のこっち側にはフードコートがあって飲食店ばかりだといったように、場所ごとに店の種類がある程度偏っていて、きちんと傾向がある。シャツを買いに来た人は、近い範囲で違う店をたくさん回れるから便利だし、お腹がすいたらフードコートを見回せば選択肢が多くて選びやすい。
ただし、「同じような店がある」とは言っても、「同じ店がある」わけではない。ユニクロが2階にも3階にも両方あるなんてことはないし、丸亀製麺が5店舗横並びということはない。それだとお互いに足を引っ張り合って売上げが落ちるだろう。
体の中でもこれと似たようなことが起こっている。たとえば胃粘膜においては、粘膜の表層で胃を保護する腺窩上皮という「防御型」の細胞と、胃酸の主成分である塩酸を作り出す壁細胞という「攻撃型」の細胞、ペプシノーゲン(胃内でペプシンという消化酵素に変化する)を作り出す主細胞という「攻撃型2」の細胞などがいりまじっている。これらはそれぞれ、同じ胃という臓器の機能を担っている以上、「同じジャンルの店」であるが、売っている商品は異なっている。アズールとコムサイズムとイッカはいずれもファッションの店だが雰囲気はすべて違うだろう。一方で、胃には呼吸上皮は存在しないし肝細胞も存在しない。まるで違う仕事をする細胞は存在しないのである。フードコートにモンベルやニコアンド・・・があっては不便だ、それと一緒。
また、胃の中で、腺窩上皮だけがごっそり集まるということは起こらない。防御をしつつ胃酸もペプシンも分泌するからこその胃であって、防御ばかりを固めても役に立たない。ヴィレッジヴァンガードが15店舗横並びになったフロアがあれば、(Twitterに写真をあげればバズるかもしれないが)少なくとも売上げ的には厳しいはずである。
では、現実に胃を眺めていて、「ある一箇所に似たような細胞ばかりがどんどん増えている」という状態があるか。正常である限りそういうことは起こらない。逆に言えば、病気だとそういうことは起こる。誰もが知っている病気である「がん」がまさにそういう状態だ。
がんでは、ある一つの細胞が遺伝子の異常によって際限なく細胞分裂をする。ふつう、体内にある細胞は一定の寿命を持っており、細胞分裂するタイミングも回数もきちんとコントロールされているから、無尽蔵に増えまくって徒党を組むことはない。しかし、がんは「無尽蔵に増える」。元はたった一つの異常な細胞なのだけれど、とにかく増えまくる。その様子はあたかも、イオンの中でGLOBAL WORKばかりが妙に元気になってフロア全体を埋め尽くすようなものだ。ライトオンは滅びる。ジーユーも生きていけない。フードコートのペッパーランチもマックも撤退せざるを得ない。なんならトイレもなくなるし駐車場も破壊される。
GLOBAL WORKという単一起源のお店だけが増える状態を、「モノクローナルな増殖」と呼ぶ。モノ=単一(モノラルとかモノアイのモノ)、クローナル←クローン(同じような遺伝情報を持つ細胞のこと)。ほんとうは手分けして必要な数だけそこにあるはずの細胞が妙にカタマリを作って増えてしまう。顕微鏡でその雰囲気を早期に見出すことができれば、イオンの統括マネージャーはGLOBAL WORKがフロアを埋め尽くす前に店を潰してかわりに靴下屋か何かに変えてしまうことができる。こうしてイオンは守られる。ただし場末のイオンにおいてはフロアの反対側でジャスコモールがモノクローナルに増えていることを見逃してはならない……。
2021年6月22日火曜日
鑑別診断の技術
楽天ファッションアプーリ ラララ 楽天 ファッション アプーリ と歌って踊っているCMがあるのだが、あれずっと浜辺美波だと思っていた。ん? と思って検索したら清野菜名だった。くらべてみたら別に似ていなかった。「若い女優さんがみんな同じに見える現象」がついにぼくにもやってきたのだ。つまりは違う世界で暮らす違う種になっている。
ぼくはハムスターの顔の差がわからない。みんな同じハムに見える。ハムスターはヒトの顔をどれだけ見分けているだろうか。チンパンジーくらい賢ければヒトを見分けるのだろうか。でもぼくはチンパンジーも見分けが付かない。象もカブトムシも、犬ネコであっても、誰が誰やら区別できない。それはつまりぼくが「違う種」だからなのだろう。ヒトであるぼくはヒトしか見分けられない。訓練しない限り。
しかしぼくは今、女優さんの見分けが付かなくなっている。住む世界が違うということか。食べるものも暮らしぶりも違うといえば違う。言葉も通じない可能性もある。意思疎通できるかどうか怪しい。目で見て区別が付かないことに種としての断絶を感じる。
昔は見分けていた物がだんだん見分けられなくなる、という現象を感じることもある。スマホゲームがどれも一緒に見える。走る車もだいたい同じに見えている。道行く青少年たちの見極めもあやしいものだ。心的なストレスによって認知がおぼつかなくなる現象もあるとは聞くのだけれど、ぼくの場合、現時点でツイッターのアイコンは瞬時に峻別できるし細胞診断にも問題がない。40代半ばくらいの人間は滋味をもって見分けが付く。科学読み物の文体、オルタナティブロックのベース音。脳が「ここだけちゃんと見ておきなさい」と専門化していると考えた方がしっくりくる。昔はそうじゃなかったのだから脳は可塑的だということだ。ぼくはここしか分けなくてよくなった。ぼくはここだけ分けて毎日を暮らしている。ぼくはここを分ければいいのだと、脳が心を言いくるめにかかる。