2021年10月20日水曜日

病理の話(588) しらみつぶしと一瞬の発見劇

顕微鏡を見て病変を……「悪い細胞」を探すときにはいろいろとコツがある。そのコツは、おそらくそう簡単には他人と共有できるものではないのだ、たとえて言うならば、「ウォーリーを探せ」がめちゃくちゃうまい人から探し方を教えてもらうことができるだろうか? 「それはなんか……カンだよね」という答えしか返ってこないことが多いだろう。でもそこを言語化するからこそ病理診断は学問になり得るのである。


たとえば、がん細胞はウォーリーと違って「ある程度いる場所に傾向がある」。このことを知ると、がんを探すときに便利である。こむずかしい専門用語で言うと、「胃癌の組織型が高分化型管状腺癌ではなく、低分化腺癌であれば、漿膜則を癌が”這っている”ことがあるからそこはちゃんと目で見て確認すべきである」とか、「大腸癌のリンパ管侵襲箇所は病変の辺縁部に多いからへりのところをしっかり見る」など。ウォーリーは屋根の上にいるかもしれないし電車の中に紛れているかもしれない、しかしがん細胞にはもう少し理屈があって、こちらも「がん細胞の気持ちになって」探しにいくとそれだけ発見のスピードは上がる。


今、書いていて思ったのだけれど、「がん細胞探し」はウォーリーを探せやジグソーパズルのようなセンス・カン・しらみつぶし系の仕事とは異なっている。やっていることはシャーロック・ホームズの推理に近い。犯人がどういう理由でどこを経由してどのように動いてどんな悪事を働いているのかを、現場で証拠をかき集めながら同時進行で推理する。エルキュール・ポワロのような安楽椅子探偵ではなく、あくまでホームズやコナン君のように「現場を歩き回って虫メガネであちこち拡大する必要がある」というのがポイントだ、ただしそのときやっているのは頭脳をフル回転させることがメインあって、「虫メガネで拡大して地道にぜんぶ見ていればいつかはヒントが出てくる」という類いのものではない。


昔、「さんまの名探偵」というファミコンソフトがあった。主人公は明石家さんま、コロされた犯人が桂文珍、ボートレースで横山やすしとバトルし、島田紳助をどつこうとすると「あいつはやくざだからどつきかえされる」と注意されるというじつにイカれたゲームだったが、このゲームでは画面の中をプレイヤーが調べることができた(「かにかにどこかに?」)。このとき、小学生だったぼくはどこを調べたらいいのかわからなかったので、画面のすべてをカニの形をしたカーソルでぜんぶ調べ回るという方法でなんとか話を先に進めようと悪戦苦闘した。病理医になって顕微鏡を見るようになったとき、最初はこの「かにかにどこかに?」の気分で、「画面」全体をすべて見ないとがんを見つけ出せないものだとばかり思っていた。しかし、達人病理医は違った。プレパラートを顕微鏡に置いて、拡大を上げる前に視野が高速で動いて、どこかでピタリと止まったらそこを思い切り拡大するとなんとその中に確かにがん細胞がある。い、今のはどうやったんですか、と本当に驚くばかりであったが、振り返ってみるとあれはおそらく「がんはこういう場所にいやすい」ということをわかった上で探しに行っていたのであろう。言語化して教えてくれればいいのだが、そのベテラン病理医はひとこと、「経験だね」と言った。間違ってはいないがそれでは若い病理医は増えないだろうと思ったものである。


ただまあ実際に、ぼくもある程度経験を積んだ今だからこそ言えることがある。ぼくはがん細胞を見つけるスピードも診断を書くスピードもめちゃくちゃに早くなった、しかし、じつは何年経っても「しらみつぶし」はやめていない。なぜなら、ウォーリーは一人かもしれないががん細胞は一人ではないからだ。「ここにはいるだろうな」という場所でがんを見つけても、その後、「まさかとは思うがここにもいないか?」という目で標本全体をきちんと調べ尽くさないと、病理医としての仕事を果たしたことにならない。発見して終わりではない、その他の場所にたしかにがんがないことも確認してはじめて病理診断である。だから結局しらみつぶしになるんだけど、これは、「わからずにやっているしらみつぶし」とは意味が違うので、正味の時間は素人に比べるとやっぱり少し早くなる。


はー、ここ言語化するのたいへんだった。でもまあ大枠は伝わりそうかな。

2021年10月19日火曜日

カイゼンなどという摩耗した言葉を喜んで使うのもある種の若さなのかもしれないと思う

ノーベル賞やドラフト会議のたびに「電話の前で座って待っています」とツイートする人いるよね、という話をしていて、ほかにどんなパターンがあるかなとしばらく考えていたのだけれど、フォロワーからのリプライに「スマブラ」と書いてあって、たしかにと膝を打つ。ニンダイ(任天堂ダイレクト)で大乱闘スマッシュブラザーズの新キャラが発表されるときに「俺参戦!!」とツイートしてるやつ、いる。


「他にどういうパターンがある?」系の話題に強くなると楽しいだろうなー、と思うことがかつてあった。ラジオDJとかに求められる資質だ。でも最近はあまり考えなくなった。「会話の中で自分が一番おもしろいことを言いたい」という欲望が消えてきている。


この話をすると、控えめな方々から「エッそんな欲望があるものなの?」と引き気味に驚かれたりするのだけれど、しかし、世の半分くらいの人はなんとなくうなずいてくれるのではないか。みんなで仲良く話をしているときに、自分の一言でまわりがワッと湧いたら楽しいだろうな、くらいの感覚だ。少なくともぼくには何年もあった。それがぼくの、若さの正体であったと言えるかもしれないし、ここはまだ十分に言語化できていない気もする。もう少し言葉を積んでみる。


自分の中にあるもやもやとした想像を具体に近づけるということの一環として、場から得た印象をすかさず共有可能な言語にしてその場に置くこと。これは、世界の中で自分がどこに配置されるのかを確認するための作業だったように思う。どの刺激が、どこの感覚器に入力されて、脳でどのように反響して、どのように出力されてどこの筋肉が反応するのかを確かめつつ、自分の行動、ありようが、誰の感覚器に入っていって、見えないところでどう反響して、何が反射してくるのかを目の当たりにする。テクスチャAとテクスチャBとが重なり合っているとき、それらの境界の部分が織りなす「自然界には本来存在しないはずの輪郭線」が目に映る。自分自身のテクスチャもまた他者から見たらどこかに境界線を作るのだろうと漠然と理解しつつ、でもどこか不安になって、鉄格子の向こうからスリット状に差し込む光の前に手をゆらゆらさせて手の輪郭を確かめるかのように、その場に自分を置くことで世界との間柄を確かめながらさらに自分の境界線を毎回決め直すようなことをしていたのだ。それが最近なくなってきたというのは、つまり、自らの身体の輪郭が、もうこのへんだなということを、ほとんど理解してしまったからなのだろう。それが若さを失うということであり、いよいよ自分のテクスチャを用いて世界にアフォーダンスを加える準備ができたということなのではないか。

2021年10月18日月曜日

病理の話(587) やられた後に復活すると一回り大きくなる

医学部で「病理学」を習うとき、わりとさいしょのほうで、「創傷治癒」というのを習う。画数が多くていかにも専門用語っぽい言葉だ。

創傷の創は、一般には「創造」っぽいイメージがあるかと思うが、「銃創」のように穴の空いた傷口のことを指す。ひらく、という意味なのだろう。

自分が「昨日までの自分」で居続けるためには、体のどこかがやられたときに、それを修復する仕組みが必要である。生きていればさまざまなものから攻撃されるが、傷ができないように避けるか、傷が小さくなるように後ずさるか、あるいは、傷ができてもそれをすぐに治す、これらが達成できれば、人はわりと長生きできる。

さて、胃粘膜がちょろっと剥げたときのことを考えよう。穴が空いたままにしておくとそこから食べたものや胃酸などが胃の壁の中に入り込んできてしまう。だから生体は比較的すみやかに、周りの粘膜の新陳代謝機能を活発化させて、穴の上に橋を渡すように「粘膜の細胞」を穴のヘリから歩かせる。でも、穴が空いたままだと細胞は空中を歩くことになってしまう、ていうかそれは無理なのだが、人体とはよくできたもので、出血に伴って「かさぶた」的なものができて穴が少し埋まり、さらにはかさぶたの下に肉芽と呼ばれる「修復するための土のう」のようなものが盛り上がってくることで、穴がだんだん小さくなっていく。

そして、穴のヘリからえっちらおっちら歩いた細胞が手を繋いで、ふたたび粘膜が復活するのだけれど、このとき、復活した粘膜の細胞……というか、細胞が織りなす構造は、元の粘膜の構造よりも「少しだけ大きくなっている」ことがある。するとどうなるか?

胃で、昔穴が空いた場所に、今は穴ではなく、逆に、マッシュルーム的な隆起ができていることがあるのである。

この隆起のことを「再生隆起」という。おそらく、穴埋めを急いで細胞の新陳代謝を激しくした際に、作りすぎてしまうというか、「足りないよりは余るほうがマシ!」とばかりに、増殖がいつもより活発になりすぎて、かえって細胞の総量が多くなってしまうのだろう。

このことを病理学用語で「過形成」という。英語だとhyperplasia。-plasia というのはプラスチックと同じ語源で「形成」を意味する。hyperはハイパー、なんか増えてるわー乗り越えてるわーというイメージそのままの言葉だ。



では、逆に、胃の中に「小さなマッシュルームのような隆起」があれば必ず「穴の再生に伴う作りすぎ効果」なのかというと、そうとは限らない。

さきほど、「穴埋めのために、まわりで細胞が作られすぎてしまう」ことが過形成の原因だと書いた。しかし、細胞が一生懸命作られすぎる状況というのは、再生以外にもあり得る。

「べつに修復する必要はないのに細胞の新陳代謝が勝手に激しくなる状態」。

ここで思い付くのは、腫瘍(しゅよう)だ。かの有名な「がん」も腫瘍の一種である。ただし、子宮筋腫のような「がんではない腫瘍」もあることも忘れてはいけないが。

腫瘍というのは「異常な増え方」や「異常な機能」を持っている。穴を治す必要がないのに細胞が増えるというのは普通ではない。土木工事の必要がないのに勝手に土のうを積んだりコンクリートを流したりしている、あやしい事業のようなものだ。

となると、われわれとしては、胃の中に「マッシュルームのような隆起」や、「きのこのような隆起」や、「毛足の長い絨毯のようなふさふさ隆起」などができていたときに、それが「穴が空いてそれをふさぐために生じた過形成」なのか、「がんなどの腫瘍によるもの」なのかを、見極めなければいけない。どうやって見分ける?



大丈夫、プロの内視鏡医が見れば、ざっくり99%くらいは見分けられるものなのだ。えっ1%は間違えるの? 心配ない、その1%を訂正するのが病理医の仕事である。胃カメラの先からマジックハンドを出して、マッシュルームのはしっこをひとかけら摘まんで、細胞を病理医に届ける。病理医は顕微鏡でそれを見る、細胞の姿をていねいに観察して、そこにあるのが「再生・過形成」なのか、「腫瘍性の異常増殖」なのかを確定診断するのである。


2021年10月15日金曜日

日本人がノーベル賞を取りました報道に思うこと

最初に言っておくとぼくはそういう「日本人がノーベル賞を取りました!」報道は大賛成である。どんどんやってほしい。インターネット・オーシャンではたいていの有識者が「賞を取ったのが日本人かどうかなんてどうでもいい」とか「国籍がすでに日本じゃないのに日本すごいと喜ぶなんて」などとナンクセをつけている話題だけれど、ぼくはそういうさまざまな声があるのを継続的に観測した上でなお、「メディアはどんどん日本人がノーベル賞を取ったよ解説ニュース」をやってほしいと思っている。


そもそも、昨年「日本人以外のだれか」がどのようなノーベル賞を取ったのかを誰も覚えていない。「日本人かどうかなんてどうでもいいんだよ!」なんていうみみっちいツッコミよりも、「でかいメディアがノーベル賞の話題を扱ってくれてありがたい!」という感謝の方がでかい。そういう規模、そういうレイヤーの話に感じる。


「科学情報の伝わりづらさ」たるや……。平和賞や文学賞、経済学賞はともかく、物理学賞や医学生理学賞は悲惨である。医学の話題でイベルメクチンばかり覚えているほうがどちらかというと不自然なのだけれど、日本人が関わったというだけで我々の脳内には実際、記憶が定着してしまうものだ。日本人が関わっていない科学業績を伝えるのは本当に大変である。そう、科学情報コミュニケーションの話。


科学の話というのはとっかかりがすごく難しくて、情報の受け手に「あ、これ、自分ごとだ!」と思ってもらうのにとんでもなく高いハードルがある。次にあげるのもまたインターネット・コロシアムでよく有識者から出る文句であるが、受賞者に対する質問で「その研究は何の役に立つんですか」がボコボコにされるシーンを目にする、あれだって要は、一般の人にとってその研究成果を自分ごとにしてもらうにはどうしたらいいかとなんとなく感じ取った記者なりのセリフに違いない(それにしても語彙が少ないとは思うが)。許してやれよと思う。話題にするだけマシだ。「その研究はぼくは興味ないんで質問しません」のほうがよっぽどタチが悪い。お昼の失言系のテレビで有名司会者が「ネコもシャクシもノーベル賞の話題で盛り上がっていますけれども、どうせ我々には関係のない頭のいい話ですから、放っておいてネコチャンの話をしましょう」とか言い出す世界線よりずっといい。


「日本人が取った!」ということでまずは目を引く。そして、「この日本人が取ったノーベル賞とはいかに名誉なことで、なぜそんな名誉をこの人が取れたのか」という流れで、研究の具体的な内容を、テレビ局がカネをかけてやとったイラストレーターやデザイナーの描き起こし・作り起こしのテロップできちんと説明していく。ここまでやってようやく、一年に何度もない「お茶の間に科学情報が放送され、スクショがツイッターに拡散される状態」が完成する。科学者の家族関係なんてどうでもいい、科学には関係ない、という怒りについて、ぼくもまったくその通りだと思う一方、変な話、そうやって「身近に感じた人」が発見した事実とはどんなものだったのだろうと、あとから科学を探究しようと思う人が数百人でも増えればそれはいいことなのではないか。


「なんでも日本人ってだけで取り上げるマスコミ(笑)」という冷笑がある種のブームになったきっかけは、THE YELLOW MONKEYの「乗客に日本人はいませんでした いませんでした いませんでした いませんでした」がヒットしたことだと勝手に接続している。あれだってきっと、現場ではたらく人たちにとっては必要な報道だった、「そんなのやめろ」という外野の声以上にその声を必要として役に立てていた人がいたはずのに、冷笑して茶化したものがロックの皮を被って人口に膾炙してしまった(元の曲はいい曲だがその部分ばかり有名になったのでイエモンもしんどかったのではないか)。ぼくは背景を知らずに外野がヤジを飛ばすことがロックのいいところでもあり悪いところだとも思っていて、でもそんなことは、ロックバンドを名乗る人たちもとっくに考えているので、是非を問わず曲の良さだけを語ればよいと思うのだけれども、少なくとも「日本人がどうたらとか言わずにノーベル賞の報道をもっとフラットにしろ」という人たちの大半はイエモンのあの歌からうまく進化できていないのではないか、と少し気になっているのである。

2021年10月14日木曜日

病理の話(586) 病理医が足りないと思うわけ

いったん家に帰って妻子とあれこれ連絡を交わした後に、また出勤している。一時帰宅しているから勤務時間としてはたいしたことがないが、それなりにしんどい時間の使い方だ。


病理診断だけならこんなに時間はかからない。はっきり言うが、10年も病理医をやっていればうちの病院くらい症例が多くても普通に毎日8時半から17時まで働けばノルマは十分にこなせる。ぼくはもう医師18年目だ、プレパラート仕事だけなら余裕だ。

でも、病理医としての仕事は病理診断だけでは終わらない。少なくともぼくはそう思う。


臨床医から、「この珍しい病気はいったいどういうものなのか」と聞かれたら、夜を徹して資料を作ってその疑問に答えるのが病理医の仕事だ。もちろん臨床医だって調べるのだけれど、細胞に関する部分ならば病理医の方が圧倒的に知識があるので、そこは二人三脚、三人四脚、できれば十人十一脚くらいで調べたほうがいいに決まっている。

臨床医や診療放射線技師、検査技師が、学会や研究会で症例報告をしたいと相談してきたら、病理組織像の解説をパワポで作るし、参考文献をダウンロードして読み込んでおく。

他院に勤める医者から質問があれば答える。専門医としての意見が欲しいと言われれば正規の手続きに則ってコンサルテーションもする。AI病理診断の開発を手伝って論文も書くし、学生のための講義資料も作る。

これらのどこまでが「病院から給料をもらってやる仕事」なのかと言われると、いろいろと答えようはあると思うのだが、でもぼくが考えるに、「その病院で採取された細胞のことだけ見て診断していればいい」というのは病理医としてはあまり働けていない。「その病院に勤める医療者のためだけ考えて調査研究していればいい」というのもまだ狭いと思う。「自分が関わる可能性のあるあらゆる患者、あらゆる医療者の中で一番細胞に詳しく、臨床動態と病理組織像との関連に詳しく、遺伝子やタンパク質の異常にも詳しく、座学に強くて発表がうまいからとにかく知恵を借りたいときにはあの病院の病理医に連絡をとったらいいことがある」くらいの評判を積み上げてはじめて、「ある病院の病理医」としてカンバンを出すだけの資格が手に入ると思う。


ただまあ、その一方で、ぼくが元気に残業し続けている限り病理診断科は役に立つぜと言われるのもシャクだ。持続可能なシステムを作るのもまた仕事である。ぼく一人が残業なんかせずとも、脳だけできちんと人びとの役に立つ体勢を複数人でかわりばんこにこなせるようになればいい。チームでやれたらもっといい。


こういうことを全部考えると、日本病理学会の言う、「病理医は足りていません」という話が現実味を帯びてくる。ぶっちゃけた話、顕微鏡をのぞいてプレパラートを見て考えるだけならもう病理医は足りている(一部の地方は大変だろうが)。でも、主治医達の相談役として病院の中で存在感を発揮するにはまだまだ足りない。医者の総数は約33万人と言われる、これに対して病理専門医の人数はせいぜい2600人。病理医ひとりあたり、127人もの医者の相談に乗らなければいけないというのは普通にきついだろう。まして、相手は医者だけじゃないのだ、診療放射線技師だって臨床検査技師だって、看護師だって病理医にものを聞いてみたい。だったら今の10倍くらい病理医がいたって、ぜんぜんかまわない。


だから病理医はもっと増えていいと思う。とりあえず目標は3000人、かわいいものだけれど、10年前は病理専門医は2100人しかいなかったのだから、最近の病理学会はけっこううまいことリクルートしてるんだなーと思わなくもない。

2021年10月13日水曜日

ここに3体の全部火属性のポケモンがおるじゃろ

> 市原様がお考えになる「言葉」がもつ力とはどのようなものでしょうか。

 

力があるかどうかはともかく、誰かが何かを選択する参考になればよいな、と思ってこれまで言葉を使ってきました。ただし、そもそも、人ってそこまで選択して生活しているんだっけ……ということが最近気になっています。

生きることの大部分が「選択のくり返し」だと思い込んでしまうことは、広告側のしかけた優しい嘘の影響ではないでしょうか。あるいは、人によっては「かまいたちの夜」あたりがきっかけかもしれません。選択肢を選ぶことでエンディングが変わる、それが人生だ……というのは、だいぶGPUの描出スペックが粗い。ドット絵時代に限られたロムの中に詰めこまれた「人生の縮図」のイメージが、未だに多くの人を縛ってるんじゃないか、と思うことがあります。

それこそ、ものを買う、選挙で投票をする、結婚相手を選ぶ、みたいに、「選ぶ」という行動に人生の大事なシーンがある、みたいな。

でもほんとうは、私たちはそれほど毎日何かを「選んで」いるわけではないんじゃないか?


自分の意志は自分だけじゃなく、人間関係、立場、職務、何かを大事に思ってきた積み重ね、みたいなものによって、半分能動、半分受動みたいなかんじで組み上がっています。それほど複雑な自分の前にあるのがいつも「初期ポケモン3体」で、この中のどれかを選んで冒険をはじめなさい、みたいな選択肢がいつもいつも提示されるわけがない。


本当に毎日やっているのは、選択ではなくて、どちらかというと、微調整というか、手直しというか、サイズのお直し、フィックス、だと思います。

服を買うときに大事なのってその服のポテンシャルだけじゃないでしょう。自分がすでに持っている服との相性、バランス、その服をどういうシーンで着るべきかというイメージ。こういうのを全部考えた上で「選択している」と本人は思っているし思いたいのだろうけれども、実際には、選択肢というのはそれほどドラスティックに、火のポケモン水のポケモンみたいにきれいにわかれているわけではない。


火のポケモン3体の中から選んでくれ、みたいな話だと思うんですよね。もっと細部の好き嫌いで「選んで」いる。

 

となると……話を戻しますが……。

 

「言葉が持つ力」によって、誰かが何かを選択する参考になればいい……とこれまで考えてきたのは、ちょっとずれていたのかもなーと最近思っています。「言葉」によって誰かの微調整を少し楽にする。「言葉」によって誰かが行動をフィックスするときの手間やおっくうさが少し解消される。そういう「力」のことをきちんと考えなければいけないのではないか。

 

AとBならAを選択してほしい、だからAの魅力を言葉で余すところなく伝えるぞ! というのは、シーン全体が見えていないというか、それじゃいくら言葉を使っても「現実に微調整をくり返しながら毎日を乗り切っている多くの人びと」には現実的にあまり役に立たないんじゃないかな、なんてことを考えています。



(「宣伝会議」のインタビュー用に考えていたことを、ぼくがインタビュー前にあらかじめ文章にしておいたものの。これをふまえてしゃべった内容はもっといっぱい様々な方向に転がっていった。そのうち掲載されます。)

2021年10月12日火曜日

病理の話(585) 当院における病理医リクルートについて

今がぼくのキャリアのピークだなと思うことは多い。仮に今、ぼくより若い人(40歳くらいまで)がうちの病理で働き始めたとしたら、とても楽だろう、なぜならすでにいるぼくらがほとんどの仕事をやってしまうからだ。つまりは自分の好きな量・好きなクオリティで診断や勉強をすればいい、いつまでそうやっていられるかというと、ぼくがピークアウトするまでだ(あと10年くらいだと思う。それまでの間にさらに人を集めて仕事を薄めておけばその後も楽な暮らしが待っている)。

なお、ぼくより勤務年数がぼくより多い人(18年目以降)だとそう簡単でもない。当院は単純に医師免許をとってからの年数で職位が決まるので、当院に来るなり要職に就くことになる。するといくらぼくらが仕事をできるとは言っても要職なりのデューティをこなさなければいけないからそこまで楽ではないかもしれない。逆に言えば、後から入ってもいきなりぼくを追い抜いて主任部長になることができる。これをひとつのメリットと感じる人もいるだろう。先にいる人にでかい顔をされなくてもいいというのも大学と違う市中病院のメリットだ。病理医にとって「大学を出て市中病院に勤める」というのは、臨床医が「市中病院を出て開業する」のと似たメンタルで行うべきことである。周りに病理医が何人いても一国一城の主を気取って差し支えない。経営の苦労がいらない分、開業するより楽だと思う。


自分にマッチしない量のノルマをこなさなければいけない環境、そういう時期が人生に必要だと考えている人はけっこういる。しかしはっきり言って、脳だけで働く我が仕事に必要なのは、そういった精神論的修練ではなくあくまで構造的に研ぎ澄まされたトレーニングである。冷徹に言うならば、「人から積まれたノルマが多ければ多いほど修業になる? そんなに甘い世界じゃないよ」ということだ。各人の脳に合わせたオーダーメードな鍛錬じゃないと、病理医の能力はうまく伸びない気がしている。毎日何百枚もプレパラートをひたすら見ることが能力の底上げになるタイプの人と、ならないタイプの人がそれぞれいる。教科書をいくら読んでも頭に入らないタイプの人に教科書を読ませてもだめだ。人と会わずに自分の世界に没頭することで、かえって外の世界に羽ばたいていくタイプの人もいるし、有給を減らさずに職務として出張しまくることでどんどんネットワークを広げて優秀になるタイプの人もいる。職場から与えられた業務のノルマなんて、修業の足しになるかどうか不定なのだからそこに頼ってはいけない。診断件数を用いて勉強したければいくらでも診断すればいいし、そうじゃないと思うならぜんぜん診断しなくてもいい。ただしぼくと同じキャリア年数のときにぼくより優秀でいてくれる必要がある。そこは中庸な目標として設定してよいのではないか、と自分の能力を客観視して普通に考える。


とはいえ札幌の市中病院だ、ここでキャリアを終えるのはちょっともったいないな、と感じる人も多いと思う。ぼくはたまたま「どこにいてもキャリアを広げるネットワーク構築力が高いほうの人間」だったのでこの場所にマッチしているけれど、大学のお膝元で多くの偉い人と直接顔を合わせないと自分の世界が閉じていくと不安になるタイプの人が多いことはよくわかる。そうでなければうちのような素晴らしい職場環境にはもっと人が詰めかけていることだろう、まあ、ここだけの話、詰めかけた人びとがあまりに若いと「あと10年くらいは大学や研究機関で修業したほうがその後の可能性が広がるかもしれないですね」と心を込めて説明してしまい、その話を真に受けて関東や関西のどでかい施設に飛び立っていった人たちが数十人いるのだが、つまりはぼくが「うち? 大歓迎だよ!」とやっていればこの10年で40人くらいがうちの病理診断科に勤めてくれていたはずなのだ。リクルート失敗の責任は現主任部長にあるということである。