2022年11月30日水曜日

病理の話(721) 浸潤と確率

病理医が日常的に気にしている「キーワード」みたいなのがある。

「浸潤の有無」である。

しんじゅんのうむ。説明が必要だろう。



病理医の行う病理診断では、患者からとってきた検体を顕微鏡で見るなどして「病名を付ける」。このとき、およそ半分強の症例で、「がんか、がん以外か」を見極めようとしている。その病気ががんであることの確定は、たいていの場合、病理医が担う。なぜなら、ある病気ががんであることを確定するには細胞まで見る必要があり、細胞を見るというのは病理医のメインタスクだからだ。

細胞の風体やふるまいを見てがんかどうかを決めるにあたって、我々病理医が重要視するのが、その細胞が周囲に「しみこんでいるかどうか」である。

細胞がどこかにしみこむことを「浸潤」と呼ぶ。むずかしい言葉を使いたいのは学者のさがだ。



人体の細胞は、正常であれば、「居場所」を厳密に守る。皮膚の細胞が胃に生えることはないし、脳細胞が肝臓で育つこともない。しかし、ヤクザ化した細胞であるがん細胞は居場所を守らない。胃の粘膜から発生しておきながら、粘膜をこえて周囲に浸潤(しみこみ)し、血管やリンパ管の中に入り込み、リンパ節や肝臓、肺、骨などへと転移していく。本来の居場所を守らずに縦横無尽にしみこんで「のさばる」ことで、体内の栄養を奪い、周囲の細胞とケンカをし、人体の警察官である免疫とバトルをして、最終的に人体を死に至らしめる。


「がん死」を少しでもふせぐ、あるいは先延ばしにするために医療が行われる。なるべくヤクザ(がん細胞)の分布を正確に把握して対処するのががん治療だ。ヤクザが一部分にまとまっているのであれば、その部分を手術でとってしまえば周囲への被害は最小限で済むし、ヤクザが全国(体中)に散らばってしまっている場合には、一部を手術してもあまり意味がないので、広範囲に効く抗がん剤などを使用することになる。



というわけで、「浸潤」とはすなわち「ヤクザ仕草」である。がん細胞がばりばりと周囲にしみこむ姿は、CTスキャンや超音波検査、内視鏡検査などでも見ることができるので、とりわけ病理医だけが確認できる仕草というわけではないのだが、「今まさに周囲にしみこみはじめたがん細胞」というのを確認できるのは病理医くらいだ。ミクロレベルで浸潤しはじめました! というタイミングでがんを捉えることができれば、その時点で治療することで、患者の命を救えることも多い。



ただし、ここでひとつ、注意点がある。周囲に浸潤しはじめたがん細胞は、まだ「わるさをしはじめて間もない」わけで、逆に言えば、その時点では「転移していない」。浸潤と転移こそががんの本質的なヤバさなのだけれど、転移していないとなると、それはがん以外の病気とどう違うのかという話になる。

ヤクザの例えでいうと、「ヤサを一歩出たタイミング」で逮捕していいのかという話になる。お前、悪そうな顔してドアを開けて出てきただろ! で逮捕してよいか? ヤクザの側もだいぶゴネそうだ。まだ何もしてねぇよ……と。



では警察はそこでヤクザを見逃していいだろうか?

ここで、いかにもやっかいな、「統計」という言葉が登場する。確率で考えるのだ。「ヤクザがヤサを出る仕草を示した場合、10%の確率で、駅前の繁華街にショバ代を集めに行って人びとに迷惑をかける」というように、これまでそのような仕草をしたヤクザが後にどういう振る舞いをしたかを、データで突きつけるのである。


えっ10%……? と思われるかもしれない。ヤクザ……がん細胞が周囲に浸潤をはじめた段階では、転移のリスクはそれくらい低いのだ。だったらもう少し放っておいてもいいんじゃないか、という考え方も、できなくはない。ただしここで10%の確率で起こることとは、患者の命を左右することなのである。0.00○%くらいの確率でしか当たらないロト7すらみんなホイホイ買うのに、10%の確率で命が奪われるかもしれないと言われておびえない人がいるだろうか? ……いるんだけど、そこはもう、本人の価値観なので、医者と患者とで話しあって決めていくしかない。


CTや内視鏡などで肉眼的に確認できる浸潤や転移と異なり、病理医がミクロを検索してはじめてわかる浸潤というのはこのように、「ヤクザが将来悪さをするかもしれない仕草」であったりする。ただし、臓器によって、病気によって、がんの種類によって、どれくらい浸潤したらどれくらい転移の危険があるかというのはさまざまだ。医療の世界では無数の統計が管理されており、過去にこういうヤクザのこういう仕草がどのような結果になったのかを緻密に集計してある。浸潤イコールぜったいにやばいとは言いきれないが、浸潤イコールある一定の確率でやばいことが起こる、という感覚だ。こうして現代の医学はだんだんと歯切れの悪いことばかり言い始めるようになるが、勘弁して欲しい、そうでもしないと、ヤクザを早めに取り締まることなんでできないのである。

2022年11月29日火曜日

にせものの怒り

小説や映画などを体験したあとに延々と不満を書き綴るタイプの人というのがいて、おそらくそういう人は文芸や映像に限らず、たとえば絵画や音楽などでもいるだろうし、あるいは政治とかにも向けられるのではないかと思うが、とにかく何か自分の摂取したものに対して怒りを表明するムーブがわりと普遍的に存在する。


で、最近そういうのを見ていると、ときに、ああこの人は思いっきりこれらの芸術に「心を動かされてしまった」のだなあと感じることがある。


それは必ずしも創作者が意図していた通りの感想と同じではないのだろうけれども、創作者の意図イコール芸術性ではないと思うし、動いたならそれは芸術自体が持つ力だよなあと思う。作者の意図とは関係無しに、作品自体の内包する「心動かし能力」こそに神が宿っている。それは女神かもしれないし鬼神かもしれない。芸術作品を見て正だろうが負だろうが、とにかく動かされてしまった人は、どっぷりとその作品の射程圏内に捉えられていると考えるべきである。仮に不満タラタラであったとしても芸術性に当てられているというわけだ。なぜこんな書き方をするんだ、どうしてこんな描き方でいいと思っているんだと、創作者に対する不満や怒りを猛烈に書き殴っている人の心には「二次的な創作の嵐」が吹き荒れている。それはひとえにその人が言うところの「つまらない作品」「できの悪い作品」とやらが世に出されたからである。たぶん、そういう怒りを呼び起こすような作品は、ある意味ですばらしい芸術なのだ。

誰もが、作品がなければ自らの感情に気づけない。

だから、何かに怒りたい人は必ず他者の創作物を貪る。何かを表現したい人はいつしか他者の政治性あるいは社会的動静をチェックする。自分の中から吹き上がってくるものだけで何かを創作し続けることは常人には無理である。他者の創作したものに動かされてはじめて心が別の場所に行ける。慣性の法則に従って不動の状態である精神はいつも、強い外力によってようやく加速度を持つ。





ところで、私は何かを見てぶつぶつと怒り続けている人「全員」にもっとやれそのままでいいと思っているかというと、わりとそうでもない。ここで、怒り方にうまいヘタがあると言いたいわけではない。技量ではなく出発点の話だ。心が「つい」動かされてしまったために怒りが出ているというならば良いのだけれど、そうではなく、別の打算的な感情を実行するために芸術のガワの部分を借りているだけというパターンが存在する。芸術作品に不満を述べているようなふりをして自分の言いたいことを飾り立てているだけ。その芸術作品ははっきり言ってダシにされているに過ぎない、みたいな怒りが世の中にはしばしば混じり込む。こういうのは本当に参ったなあと思う。

何かの芸術によって心が動かされたことを、おさえようもなくほとばしらせて書くというのではなしに、そもそもある作品を見る前からこういう文章を世に出したいと9割方準備している「目的」が別にあって、それをうまく世に出したいと思うあまり、世の中の多くの人が心を動かされるであろう知名度の高い作品の尻馬に乗って、「見ました、ひどかったですね、ところでこういう話は他にもあって」みたいなエクスキューズをデコレーションとして用いた偽者の鑑賞文……干渉文。

「誰かの怒りに駆動されてまた他の人の心がざわめき動かされる」という構図はあっていいしあるべきだ。感情のピタゴラスイッチが次々と連鎖していく姿は殺伐としてはいるがどこか滑稽でもあるし崇高だなと感じる。しかし、多くの人が「つい」心を動かされてしまう作品だという性質だけをどこかからか嗅ぎつけてきて、自分の心は別に動いていないにもかかわらず、何かを主張するために言い訳程度に「鑑賞」し、「ムーブメント」の表層の雰囲気だけを掬ってきて、それを塗りたくることで自己の主張を虚飾するタイプの「怒り」がある。そんな「にせものの怒り」にぼくの心は動かされない。動かされたくない、のではなく、事実として動かされない。凪いでしまうのだ。やめてほしいなあと思う。時透無一郎の顔になる。

2022年11月28日月曜日

病理の話(720) 気づいてから確信してもらうまでのこと

なじみの臨床医が言う。「最近思うんだけどさあ、あの病気あるじゃん。あの少しめずらしいやつ」


ぼくは答える。「はい、ありますね。年に○例くらい見かけるやつ」


臨床医は言う。「あれさあ、病気の部分はもうだいぶ解析されてると思うんだけど、病気の周りにも特徴があると思うんだよな。」


ぼくは驚いて聞く。「えっ、そうですか? そんな話、教科書でも読んだことないですけど」


「うーん。最近はみんな病気の部分ばっかり見ているからなあ。みんな気づいていないんじゃないかなあ。広く見るといつも……いや、いつもではないんだけど……病気から離れたところに、特徴がある気がするんだ。ちょっと、病理でも気にしてくれないかなあ」



病気じゃないところか。ぼくは少し困ってしまう。病理医はいつも、「病気のある場所」をプレパラートにして顕微鏡で詳しく調べるのだが、「病気から少し離れた【背景】」については、肉眼で見てはいるけれども、必ずしもプレパラートにしていない。

だって、そこにはなにもないと判断したからだ。



でも、実際、「なにかあるか、ないか」というのは実に難しい。病理医がないと言ったらないんだ!……と、自信を持って言えたら診断はどれだけ楽だろうか。



患者からとりだした臓器をめちゃくちゃ細かく見ることにおいては、病理医ほどがんばっている職業もないと思うけれど、患者の体の中にあって、血が巡っていて、粘膜もうるおった状態で、臨床医がなんらかの手段で――それは内視鏡であっても、CTであっても、超音波であっても、なんならバリウム検査でもよいのだ――見る画像は、病理医の見るそれとはひと味違う。どちらが正しいというわけではない。さまざまな手段で、それぞれに違って見えるものなのだ。



だから、臨床医が「気づいた」ものには、きっと意味がある。たとえ病理医が気づいていなくても、そこをプレパラートにすることで、何かが浮かび上がってくることもある。



そういうとき、科学を進めるチャンスがある。



じゃあどうやって臨床医の「気づき」を深めていくか? 1、2例を見て、わかった気になってしまってはいけない。似たような症例を何十例も集めよう。そして、臨床医と共に、画像を見ながら、病理のプレパラートもきちんと作って、数を集めて解析を加える。このとき、「対照群」も用意するとよいだろう。その病気「じゃない人」を探してきて、比べてみることで、その病気「である」人との違いが際立ってくる。



「1例だけからわかる事実」なんてものはめったにない。患者との一期一会を否定するわけではない。なんらかの「法則」を見つけて、これから出会うかもしれない未来の患者に備えようと思うときには、証拠は多ければ多いほうがよいのである。そうすることで、最初は単なる「ある臨床医の気づき」に過ぎなかった現象が、いつしか、多くの人が確信して日常診療に用いることができる「診断のヒント」に昇格していくのである。

2022年11月25日金曜日

有用性の検証

指に毛が生えている。

「拳を握ってサンドバッグを殴るかたちにする」とき、「サンドバッグに触れる部分」に毛が生えている。

親指にはあんまり生えてない。

人差し指から小指までの部分、まさにサンドバッグを殴れるところにくまなく生えている。

この毛なんなの。進化の過程で本当にこれが必要だったの?


「まゆげは目に汗が垂れないために必要なのだ」みたいなこと言う人いるけど。指の毛の機能とは?

たぶん、必要だから残ったってわけじゃないな。さらに何千年も経ったらこの毛は消えていくんじゃないのか。だって絶対役に立ってない。


「虫垂」が進化の過程で短くなった盲腸の痕跡だという説がかつてあった。しかし今は、虫垂の中に腸内細菌がリザーブメンバーとして控えるという「サッカーにおけるベンチとしての役割」が指摘されている。ひとたび腸炎を起こして腸の中がぼろぼろになっても、虫垂から控えが飛び出してきてまた腸を守ることができる、みたいな説に置き換わりつつある。

しかし、だからといって、人間の体の中にあるものがすべて何かの役割を果たしているというのは言い過ぎでないかと思う。

たとえば男性の乳首は働いてない。尾てい骨だって特に仕事してるとは思えないし、指の毛だってきっと何の役にも立ってない。



朝から晩までPCの前にいる。ただし年齢的にも体力的にもそれがしんどくなってきたから、最近はよく、仕事の合間に立ち上がってストレッチをしたり、ときおり医局まで早足で歩くなどして体を動かす。それでも、仕事に対する集中力が上がってくると、やっぱり長いこと座って、ずっとキーボードをバカスカ叩いたり、PDFで何かを延々と読んだりすることになる。さらには、斜め上の方を見て何事かを真剣に考える。

そういうときたまに、自分で自分の指の毛を無意識に触ったりなでたり、一方向に揃えたりしている。先日気づいた。

認めたくないことだが、指の毛は精神安定に効果があるらしい。ぼくのささくれた心をおだやかにするために、指で触りやすい場所に短くてやわらかい毛が生えているのかもしれない。進化ってよく出来ているなあ。

2022年11月24日木曜日

病理の話(719) 内視鏡は見えない超音波は見える病理のほうはどないなってまっか

研究会に出ています。今日のは消化管エコー研究会。朝から夕方まで延々と、途中に特別講演も挟みながら、「症例の検討」をする。


症例の検討。


臨床検査技師、放射線技師、あるいは医師が、毎日診療をする中で「この患者のこの画像は、なぜこんなことになっているのだろう?」と気になった症例を紹介していく。


発表者は演題に上がる。マイクを前にし、パソコンでパワーポイント(パワポ)を開く。研究会の会場には数十人が(距離をとりながら)出席しているが、その10倍くらいの人びとがZoomで、オンラインで、その人の発表を固唾を呑んで見守っている。


パワポをスクリーンに投影しながら発表者は言う。


「患者は○○歳○性。~~という症状で受診し、血液検査がこれこれで、超音波検査を施行しました。その際の画像がこちらです。」


画像が供覧(きょうらん)される。会場のひとりが代表して、その画像を自分なりに解析する。自分が検査者になった気分で。


「ここの部分に異常がある気がする……。」


座長と呼ばれる少し偉い人が司会をして、様子を見ながら、適宜、発表者や、会場で画像を解析した人(読影者)に質問をしていく。どこがおかしいと思ったのですか。なぜそう思ったのですか。


「こういう画像はあまり見ません。まれだと思います。」


「なぜこんなまれな画像が見られたのでしょうか?」


なぜも何も、そう見えたんだからそうなんだよ、と考えてしまう人は、これから研究会で感動するだけの余力を残しているということだ。

「なぜ」には必ず理由がある。

病気がまれな出方をするにあたっては理屈がある。




超音波だけではない。内視鏡画像も出てくる。CTも見る。会場のみんなが、Zoomで閲覧している数百人が、一緒になって考える。そして……


最後に「病理」が出てくる。手術でとってきた臓器や病気を、発表者が発表者なりに解説する。しかし、それだけで、「画像がふしぎだった理由」が解決できるとは限らない。なぜなら、「病理」もまた、細かく複雑な解析を必要とするからだ。


そこで病理医が登場する。今回の研究会には複数の病理医が参加していて、これまでの発表者や読影者、司会たちが考えて発してきた発言ひとつひとつに、「病理から見るとこう考えられる」という意見を述べていく。


そこで議論が白熱する。病理がしゃべったらそれが全部答えになるというほど簡単なものではない。病理からはこう見えた、というだけで、超音波や内視鏡のほうがより病態をリアルに現しているということもある。



立場が違えば見えてくるものが変わる。視座が変われば思い付くアイディアも変わる。人と人との交流が学術を深めていく。オンラインじゃなくてリアルで参加して横に座っている臨床家たちと手軽に議論したいなと思うこともあるし、リアルじゃなくてオンラインだから少しだらしなくストレッチとかしながら見られて便利だなと思うこともある。


まあなんかそんなことをやっている。平日の夜、あるいは週末、祝日など。時間は無限だが我々が使える時間は有限だ。限られた機会を楽しんでいく。

2022年11月22日火曜日

読みたさにドライブされたと感じたみ

「読みたい本を読む」と「読みたいかどうか事前にはわからない本を読む」の違いは繊細だ。

前者をやろうと思うと、世にある広告がぶっ刺さる。「そうそう! それ! 読みたかったの!!」

でも、後者のときもじつは広告がぶっ刺さる。「えっ何ソレ! 知らなかった! 読みたい!!」

「読みたい」とはそもそもなんぞやと思ってしまう。読みたいとわかってて読みたいと、読みたいかどうかわからなかったけれど読みたくなった、みたいな話がいっぱいあるからだ。心の中に確固たる「読みたい」があるというのは、幻想か?



本屋に行ってうろうろして、おもしろそうだ! と手に取った本とはそもそもどういう本か。

「本屋に行く前には読みたい本ではなかった」。でも、表紙や帯や本の置き方によってその場で「読みたい本に変わった」。

著者名、タイトル、ジャンル、書店員の作ったPOP。これらが渾然一体となって、「さっきまで読みたいとは思っていなかった本」を「読みたいものに変えた」……?

あるいは、抽象的に読みたかったものが具体的に読みたいものになった? 自分の無意識に「こういう本が読みたい」というのがじつはあって、それがまだ意識に上がってきてない状態から、本屋ではじめて意識として形成されるに至った?


どうだろう。

ピュアな「読みたさ」以外にも、広告的ニュアンスに乗っかりたい感覚で「おもしろそうだ」と言って(言いふらして)本を手に取ることもある。こういうタイトルの本ってたいてい自分に合うんだよな~、とか、こういう本を読んでおもしろいときって快感だよね~、みたいな、根拠の薄い自信・確信。

「広告にドライブされたと感じたみ」(五七五)



仲良くしている知人がすすめた本だから、普段まったく読みたいと思わない本だけれど、きっと何かいいところがあるんだろうなと思って、読んでみたけど結局ピンと来なかった、みたいな経験もある。そういうとき思わず、「本当は読みたくない本を読んだ」という表現をしがちだが、「本当は読みたくない本」なんてあるのだろうか。もう少し深度を深めて語ったほうがよいのではないか。だいいち、「知人がすすめたから」というニュアンスの「読みたさ」も実在するではないか。尊敬する学者や芸能人などと同じ本を読んでみたいという単純な欲望と、実際に読んでみたときに肌に合わなかったというズレと、そのズレを感じたときの微小な敗北感みたいなものを、「読みたい本ではなかったわ~」だけで片付けるのはもったいない気がする。




脳は無意識でだいぶ多くのことをやっていて、そのうち「整合性」があいそうな情報の群れをセットで物語にして「意識」として提示する、みたいなことをやっていると聞く。「読みたい」は必ずしも理路整然としていない。ふと浮かび上がってきた幼若な感情に理屈が伴っていないなあと感じることはよくある。「読みたい」はプリミティブだ。「読みたい」にはファジーな幅がある。「読みたい」は後付けだ。「読みたい本」ばかりではないが、読んだ本はすべて「読みたかった本」になる可能性がある。

2022年11月21日月曜日

病理の話(718) 教材をつくろう

CTやMRI、超音波、内視鏡などで、「体のそとから患者の病気をなんとか見てやろう」と思ってがんばっている人たちがいる。

医者はもちろんだが、放射線技師や臨床検査技師と呼ばれる「技師」たちもだ。

このような人たちは、ときに、画像診断のプロフェッショナルとして、患者の病気をなんとかうまく見極めるために日々努力する。

「ときに」というのは……まあ、仕事はほかにもあるから、というくらいの意味だ。朝から晩まで超音波プローブを患者にあてて、内臓を探し病気を見出すことに命をかけてます! みたいな人もたまにはいるけれど、たいていの医療者は「ほかにも仕事がある」。



さて、そのような人たちが、画像検査で患者の病気を探すのは、「患者の病気を早く見つけて/適切に評価して、その後の治療を成功させるため」であろう。見つかった病気がうまく取れそうだとなったら、外科医や内科医たちがさまざまな「手術」をほどこし、病気とその周りの組織を体の中から取りだしてくる。


で、取り出したものは病理医が見て、さらに詳しく診断を付けるわけだが……。このとき、病理医が見ているものは、いわば、


「画像診断で見ていたものの、答え合わせ」


になる。



たとえばレントゲンという検査が「影絵」だということは、なんとなくみんなわかっているだろう。しかし、レントゲンに限らず、ありとあらゆる画像検査は、「どことなく影絵」の側面がある。患者のお腹をひらかずに、体の外から病気を見ようと思うとき、どんなに高性能の機械でも必ず死角ができるし、影ができるし、色彩が伝わらなかったり質感がいまいちだったりする。その意味で、画像診断とは常に影を見ているのだ。

その点、病理医が見ているものは「取り出した臓器そのもの」である。病理医はそこでさらにナイフを用いて病気を切り、内部性状まで細かく調べることで、影だった部分にどんどん光をあてていく。だから、病理が一番「正解」に近いと言われるのである。



そんなわけで、医者や技師たちはしばしば、病理医に、「あの臓器、本当はどんな感じに見えるの?」と質問をする。たとえばこのように。


「乳腺の中を走ってる乳管って、どんな感じで走ってるの?」

「膵臓のここの部分に脂肪が多かったと思うんだけど、病理で見てもそうだった?」

「肝臓のこの部分には石が詰まってたのかなあ。石のせいで、そのまわりの部分がよくわからなかったんだけど、どうなってた?」

「前立腺ってけっきょくなんなの?」


わりと多く聞くのがこの「結局なんなの」。ちょっと笑ってしまうが聞くほうはいたってまじめである。日頃から、影絵的なもので暗号、記号、例え話をまじえながら診断をしていると、「結局なんなの!?」と知りたくなるのだろう。


というわけで病理医にだいじな仕事がふりかかる。

医療者に「臓器が実際にどうなっていたのか」を見せるタスクだ。

しかしぶっちゃけると、この仕事は、その患者に直接役に立たないことも多い。なにせ、病理診断自体は別に終えているわけで、患者に必要な病理情報というものはすでに主治医にわたっているからだ。

その上、「画像検査を担当した人のために、追加で病理を解説する」というのは、本業とは異なる「趣味」として捉えられてしまうことも多い。

乳管がどう走っていようが、とってしまった乳腺なんだからもう関係ないだろう、という考え方である。


ただ……事前に体外から患者のお腹の中をあれこれ予測する仕事をしている人たちにとっては、定期的に答え合わせをしていくことが、仕事の精度を高く保つうえで重要なのは間違いがない。みなさんもおわかりになるだろう。問題集を解いても答え合わせをしなければ実力は上がっていかないということを。

だから病理医は、直接患者のためにならないような仕事も引き受ける。医療者を教育……と言うと上から目線すぎるかな、画像診断をした人たちといっしょに追加で勉強をするくらいの気持ちで、臓器をさらに細かく解析していくのである。そうすることで、医療者たちの実力を……ときには他の病院に勤める医療者たちの実力をも、底上げすることができる。



患者から実際にとってきた臓器を用いてあれこれ解説することを「レベル1」だとすると。

「レベル2」もある。それは、「今見ている患者の病理像を、似たようなほかの患者と比べながら説明する」というやりかただ。

目の前にいる患者(の臓器)と同じようなできごとが起こっている別の人を探し出して比べた方が、より理解はしやすい。ただしその分、説明の手間がかかる。データベースの検索がうまくないと、なかなか「目の前の患者と似た患者」は見つからない。病名で検索すればいいじゃん、と簡単に考えがちだがそうではない。「画像検査」のようすが似ていた人を探さなければいけないからだ。これにはなかなかのコツがいるのでレベルがひとつあがる。

さらに「レベル3」もある。頻繁に問い合わせをうける質問については、教科書のように、教材としてまとめておくのである。

質問をしょっちゅう受けていると、この質問はよく聞くなあとか、こっちは珍しいなあという経験が蓄積してくる。そういうのをパワーポイントなどを用いてひとつにまとめれば、いわゆる「学術講演スライド」ができあがる。これには知識と経験と、あと、「質問する人たちの感性」をわかっている必要があるので、レベル3と書いたけど実際にはたぶん10くらいは必要だ。アリアハンを出てロマリアで無双できるくらいのレベルがあるとまあ序盤は普通にやっていける。




こういう仕事をかれこれ15年くらいやってきて思うこととしては……。

医療者が病理医に質問をしてきたとき、病理医としては思わず「ぼくだけが知っている真実」を伝えたくなる。これは落とし穴である。つい、顕微鏡で撮影した病気の拡大写真を見せたくなるのだ。なぜなら、顕微鏡を使えるのは病理医だけであり、顕微鏡写真というのはぼくらにとっての「特権」だからだ。

しかし、それを見せても、医療者たちの質問は解決しないことが多い。そんなミクロの現象にはピンと来てもらえないのである。

どちらかというと、デジタルカメラできれいに撮影した臓器の写真をきちんと解析することが喜ばれる。なぜなら、現場の医療者たちが見ている画像のサイズ感は、まさに、臓器をデジカメで撮ったものと同じだからだ。

倍率をあげればいいというものではない。

誰が見ても直感的に「ああ、この形かあ!」とわかるところから解説をはじめる。

そして、医療者たちが気づかないうちに、じわりじわりと拡大倍率をあげていくことで、質問をしにきた人が自然に「マクロの世界からミクロの世界に一歩だけ足を踏み入れている状態」を作る。そうすると、なんだか、うまいこと納得してくれることが多いのである。これはコツというかたぶん真髄に近いものだ。あっさり書いたけどな。