2019年12月30日月曜日

病理の話(400) そういえばドイツ語はもう

病理の話っていうか医療関係者の話。

ぼくらは今や、ぜんぜんドイツ語を使わない。

こういうと、40代以上の人に驚かれることがある。

今も使ってるドイツ語って「カルテ」くらいかな。

「クランケ(患者)」とかもう言わない。この文字列、もはや、同人誌でしか見ない。医療系の同人誌を書く人は、中山祐次郎先生の「泣くな研修医」などを読んでみるといいだろう。あそこにドイツ語の専門用語はひとつも出てこなかったはずだ。

もちろん今でも、ベテランドクターと一緒に仕事するとマーゲン(胃)とかゼクチオン(解剖)などのドイツ語を使うことはある。病院にもよる……。

けれども正直、医療者の大部分はもはやドイツ語を言われても、よくわからない。医学をドイツ語で語っていたのは30年くらい前までの話だ。




……なーんて、イキっていたんだけれど。

先日、血液ガスという検査の結果をみていたときに、思わず、「ペーハー」と呼んでいる自分に気づいた。

pHのことである。ペーハーってドイツ語読みだね。

また、結核の話をするときについ「テーベー」と言ってしまうこともある。

Tuberculosis: Tb. ティービー。これをドイツ語読みするとテーベーだ。

わりとぼくはまだドイツ語にとらわれているのだった。まあ、ドイツ語を使っているというよりは、日本で昭和以前に用いられていた医学用語(※ドイツ語由来)の名残がまだぼくくらいの年代に影響を及ぼしているということなのだが。




「臓器を切るときの刃物の使い方はシュナイデンだよ。引きながら切るんだ。そのまま圧をかけてもだめだ。シュナイデンじゃないといけない。」

ぼくはかつて、ボスにこうやって習った。実は「シュナイデンだよ」のニュアンスは今でもよくわかっていない。引き切る、という意味だろうか。頭の中にはキャプテン翼のカール・ハインツ・シュナイダーしか出てこなかった。

……シュナイダーのことを知っている人もいまや少なくなった。つまりぼくはもう「古い側」なのだよな。手元には一冊だけ、独英医学辞典がある。これを捨てるとぼくはいよいよ、ドイツ語の医学用語がひとつもわからなくなってしまうのだ。

2019年12月27日金曜日

スパイスは関係性の先に

ある文庫本の巻末解説を頼まれて、引き受けた。

こんな仕事、完全に本来の職能とは異なる部分で依頼されているわけだが、今回は引き受けた。

この作家の本に解説を寄せるにあたって、ぼくが「適任」なのかどうかは正直わからない。でも、チャレンジする価値はあると思った。





むかしから、椎名誠の文庫本が一冊出るたびに、乱読していた。かたっぱしから読んでいた。さまざまなレーベルからさまざまなジャンルの文庫。それらを網羅する勢いで読んだし、実際に網羅したいと強く願っていた。けれども、彼の本はほんとにいっぱい出るのだ。ちょっと常軌を逸した量が出る。だからなかなか全部は読めなかった。

まあ、自分の裁量で本が買える年齢となった今なら、強い意志をもって椎名誠全著作リストとくびっぴきで本をそろえることもやぶさかではないのだが、ぼくが一番熱心に彼の本を読んでいたのは中学、高校のころである(あと大学と大学院)。最初はインターネットもなかった。出版社をまたいだ刊行リストなんてものをどうやって手に入れればいいのかもわからなかった。だからとにかく目についたものを買えるかぎりで買っていた。図書館でも手当たり次第借りた。結果、リストの全制覇とまでは行っていないのだが、ぎりぎりフリークになるくらいの量は読んできたと思う。とくに紀行文やエッセイの類いはほぼ読んでいる(小説は一部未読かもしれない)。

さてこれらの本の巻末にはたいてい解説がついているわけだが、椎名誠の本に付いている解説は、作家のような文筆のブロが書いている場合もあったが、なんだかキャンプに同行した素人みたいな人が書いている場合もけっこうあって、それがおもしろかった。あるときは料理人が書いていた。あるときは居酒屋の店長が。あるときは南の島の住人が。椎名誠の半分の年齢にも達しない若いライターが書いていることもあった。沢野ひとしや木村弁護士といった、椎名誠にゆかりの深い有名人はもちろんなのだが、「……誰?」という人もいっぱい解説を書いていた。ぼくはあの雰囲気が好きだったのだ。

あとから振り返ってみると、ほかの文芸、たとえばSFとかミステリには、厳然とした「これくらいのクオリティは用意せよ」という圧力みたいなものがあるものだが、こと、椎名誠の文庫の解説については、彼とのほがらかな関係がにじみ出ていれば何を書いてもOK、のように見えた。彼が愛した、あるいは、彼を愛した人間が何かを書くだけで、それは必ず椎名誠的日常や椎名誠的幻惑の世界にとって微量のスパイスとなっていた。大味が変わらないから安心していい。カレーに多少コショウをふったところでカレーはカレーなのである。それはあたかも彼が長いこと形を変えながら続けてきたキャンプの、やたらめったら具材が投入されるうまそうな鍋のようだった。ぼくは椎名誠の文庫の解説が好きだった。




で、まあ、今回、ぼくが解説を寄せる相手はもちろん椎名誠ではないのだが、あるいは、この、筆者との関係という意味では、うん、まだ一度しか会ったことはないのだけれど、いちおう好きな相手ではあるので、なんか書いてみても大丈夫かな、と思ったのは事実なのである。締め切りは1月。

2019年12月26日木曜日

病理の話(399) 数字と臨床のセンス

今日の話もしかするといままでで一番マニアックで難しいかもしれない。

でもこのブログはもうそういうことでいいやと思っている。

医療系のブログっつってもいろいろなんだ。

わかりやすいブログ。確かな一次情報を置くブログ。時事をときおり切り取ってくるブログ。問題提起型。資料型。

じゃぼくのはどこかって、たぶん、「図書館の片隅で、自分の好きな本棚をかたっぱしから読んでいく本の虫」が、食事中とか電車の中とかでちょろっと活字を摂取するためのブログ、だと思う。

だからこれでいいや。





さて今日の話ですが。

新生児とか乳児、小児の病気にもいろいろある。

たとえばウイルスや細菌がかかわる病気。

あるいは、アレルギーがかかわる病気。

そして、かなりまれではあるんだけれど、全身にふしぎな症状が多発する、原因も病態もよくわかっていない病気、というのもあるんだ。

この「かなりまれ」ってのがポイントだ。まれだから、きちんと研究されていない。かかる人がいっぱいいれば、それだけ医療側の経験値もたまっていくんだけれど、まれな病気だと、集合知がなかなか大きくならない。だから、診断するのも治療するのもけっこう難しい……。



で、ぼくはそういうむずかしい病気の本を読んでいた。そしたらびっくりする考え方が書いてあったんだ。



「この病気は、原因が不明であったが、時代がうつりかわってもずーっと人口のある一定の割合の人だけがかかる。社会の衛生環境や医療状態がうつりかわって、食べ物やアレルギーの種類などが変化しても、いっこうに、病気にかかる割合がかわらない。

だから、おそらく、単一の遺伝子に関係がある病気だろうと推察した。

そこで遺伝子を調べまくったら、ある遺伝子に原因があることが最近判明した。」



この「だから」の部分が意味不明だろうから解説をする。



実はほとんどの病気は、原因をひとつに絞れないのである。遺伝子に傷がついていれば必ずある病気になるか? ならない。生活習慣が乱れまくっていればかならずある病気にかかるか? かからない。有名なところでは、いくらタバコを吸っても肺がんにかからない人はいるし、いくら暴飲暴食を繰り返しても痛風にも糖尿病にもならない人もいるだろう。親ががんだからといって子供が必ずがんになるということもない。

つまり、原因は組み合わさるのだ。それも、2個とか3個とかじゃない。何十個も、ときには何百個も積み上がっていくのである。タバコも暴飲暴食も、確実に何かのリスクにはなるんだけど、ある病気にかかった人の原因が「とにかく絶対にタバコだけが悪かった」みたいに決めつけることはできないのである。

すると、タバコを吸えば必ず一定の確率でがんが出るとか、暴飲暴食をすれば必ず一定の確率で糖尿病になる、みたいなことも、なかなか言えなくなってしまうのだ。これが多因子が発症に関わる病気の難しいところである。


ところが、今回話題にのぼった、とあるまれな病気に関しては、社会環境や、医療の状態が時代とともにどんどん変わっても、病気にかかる割合が、0.稀パーセントのまま、変わらないのだという……。

ほかの要因が移り変わっているのに、発病割合がかわらない。

「まわりの状況にかかわらず、一定の割合で(その数字にもヒントがあったのだが)病気が出てくる」

ここから、ある単独の遺伝子のキズによるシンプルな発病メカニズムがあるに違いない、と読み切った、推理した人がいたのだ。しかもその推理を、実際の原因遺伝子の発見にまで結びつけた人がいる!!!

す、すごい!!!!!





ごめん、ぼくばかり感動しているかもしれない……。

でも単一の遺伝子異常が原因の病気ってそんなに多くないんだ。だからこれが新たに見つかるというのはすごいことなのである。治療にもつながるかもしれない。



いやいやいまどき、ゲノム医療の時代なんだから、そんな、数字がどうとか割合がどうとか言わなくても、全部の病気の遺伝子を調べればいいじゃん、って思う?

そういうわけにもいかない。

だって、遺伝子といったって無数にある。

「とりあえずどこかの遺伝子がおかしいんだろう」と、のべつまくなし遺伝子のキズを探しにいくようなことはなかなかできない。

まして、珍しい病気だからね。数を集めて研究する手段が使えないのだ。

そういう難問を解くのきっかけが「割合」、すなわち、「数字」にあった、というのが、ぼくがここまで感動している理由なのである。




……ああ、いや、もう、読者には伝わらなくてもいいよ!

ぼくは、数学的なセンスで、医療に切り込んで、未来を開いた人が、同じ人類にいるんだなってことに、ただただ感動して、それをブログに書きたかっただけなんだ! うっ……。

2019年12月25日水曜日

影絵の条件

クリスマスイブに精子が精嚢でいったんストックされる話を書いて出してるんだなーということに今さら気づいてじわじわ来ている。

カレンダーに書いてあるイベントの大半は他人事になってしまった。ただ別に冷たい目線で眺めているわけではない。「昔は自分ごとだったなあ」という、わりかし温かい目で見ている。たぶん、そういうタイプの「他人事目線」というのもある。

なんでもかんでも自分ごとにすればいいというものではない。

「他人事」もまた奥が深いと思っている。



他人をきちんと他人として見続けることで、風景の中でうごめいている有象無象に少しずつ視点が定まって、風景のピントが合ってくる。その結果、自分が太陽に対してどの位置にいるのか、自分の影がどこにどのような形で降りているのかが見えるようになる。何かに投影された自分の影の形をみながら、今、自分の肩や首がどういう方向を向いているのか、ようやくぼんやり理解する。

自分の人格をみるカガミというのはたぶん存在しない。

見えるのは影ばかりだ。

影を見るために必要なのは投影する背景、そして光。強すぎてもだめだ。




あとは目がよくないとだめかもしれない。

ぼくは伊達メガネだから目はいい。だからなんとかなると思っている。

2019年12月24日火曜日

病理の話(398) フクロの話

胆のう。

正確には「胆嚢」と書く。というかぼくは胆嚢としか書かない。けれども新聞とか雑誌では胆のうというように漢字の後半部分が開かれている。

胆嚢の「嚢」は、ふくろという意味だ。

ためしに「ふくろ」を漢字変換してみたらちゃんとこのように並んだ。

ふくろ
復路
福路
吹路
👝

最後のはポーチだが、pouchというのも袋という意味だから合っている。



体の中にはどれくらいフクロがあるか?



胃袋というのが一番有名だ。ただし、胃は入口と出口が開いている。だからフクロとしては不完全だ。一時的に食べ物を留めておくための仕組みだからこのほうがよいのだろう。

胃の入口と出口は筋肉で締められていて、食べ物が流れるタイミングでうまいこと引き締まる。変なタイミングで逆流しないように。消化する前に後ろに流れていかないように。

たとえば、胃の入口の部分を縛っている筋肉の一部は、横隔膜と連続している。腹圧を高めると横隔膜が上に押しやられ、このときに胃の入り口を強く引っ張って、ギュッと縛る。縛られていれば逆流が起こりにくい。

もし、この仕組みがなかったら、ご飯を食べて1時間以内に大声を出したり腹に力を入れたりしたら食べ物をもどしてしまうことになるだろう。なんともまあ見事なメカニズムである。




さて胃袋はともかく、他にもフクロがある。

たとえば冒頭に述べた胆嚢。形としては、サンタさんの抱えているフクロに似ている。くびれて、中身の量によってだるーんとたるんだり、パンパンに詰まったりする。

肝臓で作った胆汁(たんじゅう)を、十二指腸に流し込む前にいったん置いておく倉庫の役割をしている。入口と出口はどちらも「胆嚢管」と呼ばれる管だ。

肝臓という工場と、十二指腸乳頭部という市場の入口をつなぐ輸送路として、胆管という太めのパイプがある。この太いパイプを通って胆汁がまっすぐすすんでしまうと、つまり、「肝臓で胆汁を作った先から十二指腸に流し込んでしまうと」、実は都合がよくない。なにせ、胆汁というのは、食べ物が十二指腸を通過しているとき必要なのであって、それ以外の時間は別にそこまで大量に流れていなくてもよい。

胆汁は消化酵素の一種であるが、思った以上に機能が多く、また胆汁の「部品」もけっこう重要なものが多いので、あまりダダ漏れにはしたくないやつなのである。だから、肝臓という工場から十二指腸という出荷先にまっすぐ運ぶのではなく、途中でサンタブクロである胆嚢に一時的にためておく。倉庫を用意しておく。そして、必要なタイミングでこのフクロをぎゅっと絞り込むことで、食べ物が通過するタイミングで胆汁を集中的に投下するのだ。

いやー人体すげぇな。




ほかにもフクロがあるぞ。

まず精嚢(せいのう)。

体外からは見えない。膀胱の下、前立腺のうらについている。

精巣(キンタマ)で作った精子をそのまま尿道からダダ漏れさせたらだめだ、ということはなんとなくおわかりだろう。必要なときにぎゅっと、一気に絞り出す必要がある。

けれどもキンタマというのは精子の工場であって、倉庫ではなのだ(勘違いしている人もいるが)。だからキンタマ工場から精子を直接尿道に送り込む前に、体の外からは見えないマニアックな部分にあるフクロに精子を溜めておく。

こうやって書くと胆嚢とそっくりだよね。




まだあるぞ。膀胱。

ただし膀胱は胃と近い。入口(尿管)と、出口(尿道)を縛ってとめてあるだけのふくらみだ。尿ブクロ。




こうやってみてみると、臓器に対する漢字はきちんと狙って付けているのだなーということがわかる。

胃、膀胱: 入口と出口がある → 厳密にはフクロじゃない → 「嚢」がつかない

胆嚢、精嚢: 入口と出口が共通 → フクロだ → 「嚢」がつく




解剖学者って偉いな!

2019年12月23日月曜日

真剣と真菌の話

NHKとか朝日新聞の人とたまに同席するようになった、これからは日テレとかフジテレビとかTBSとかテレ東の人とも同席したい。

毎日とか日経とか産経とか北海道新聞の人とも同席したい。

週刊文春とか新潮とかポストとかスポニチの人とも同席したい

同席して、それぞれが仲良くしてるところをみながら、焼き鳥とか一人で食べたい。

ぼくは誰と会ってもなんかそこをあんまり続けたくないのだ。一人にしてほしい。

かわりにそこに別の医者を連れて行きたい。うぶな医者を連れていってみんなで胴上げしたい。迷惑そうな顔をスマホで連続写真におさめたい。

そしていつしかぼくよりその医者のほうがみんなと仲良くしてるところを遠目に見ながら、「ぼくじゃないほうがいいんだ。」って小石とか蹴りたい。




そういうことを考えて、そういう存在になろうとした人、今までも何億人もいたんだろうなーというのが、わかる。

そして今はツイッターという居酒屋を使えば、それに似たことがかんたんにできる。

だからもう直接会う必要性とかぜんぜん感じてない。忘年会スルー。懇親会スルー。



こういうぼくに限っては、フォロワー増やすのが一番だいじな気がしなくもない。「フォロワー数なんて重要じゃない、大事なのは質」とか言う残念な発言は無視して、「ひたすらネット上でだけ数を増やしていくタイプの人間ですよ、ぼくは。」と言い切ったほうがいいんじゃないかと思う。小石がコツンと頭に当たる。どこからかえってきたんだ。





なんてことをもうずいぶんと前に考えたんですけれどフォロワーは増やすものじゃないんですよね、

はえてくるんです。勝手に。台所の隅とかに。カビみたいなかんじで。コロニー。フローラ。ドメスト。

2019年12月20日金曜日

病理の話(397) 医書の話をします

医学書は高いので、買ってからやっぱり要らなかった、となったときのダメージがはんぱない。

なので、本屋で立ち読みすることはけっこう重要だ。

立ち読みっていうか、いっそ、買わずに図書館などで借りて済ませれば? と言われることもあるのだが、自分の専門領域の知識を一度読んだだけで記憶できる人は基本的に存在しない(今の医学知識の総量はとんでもない量である)ので、

・自分に合っていて
・自分が使うとわかっている本

については買ってしまった方がラクでよい。結局はそのほうが自分のためになる。


立ち読みにもコツが必要だ。

手元に置く以前の段階で、チェックしておきたい項目がいくつかある。

レイアウトやフォントが読みやすくて自分に合っているかどうか。

「フルカラーかどうか」はこの際あまり関係ないので注意しよう。

ただし、看護学生向けの本などで、すみずみまで色あざやかなフルカラーでなお「読みやすい」場合は、編集者やデザイナーが細やかに目を通しているということでもある。その方が信用できる、ということも確かにある。



複数の本を読み比べるときには、何かひとつ、「同じ項目」をさくいんで検索してみるといい。

たとえば病理学の教科書だったら「出血性ショック」の項目を読み比べてみるのだ。

全体を読んで雰囲気を比べるのは大変だが、あるひとつの項目を比較するならわりと簡単にできるだろう。



……みたいな、一般的にもわかりやすい「立ち読みの仕方」についてはまあいいとして、実はぼくが本を選ぶときにこんなことよりも圧倒的に頼っているやり方が別にある。

それは、「実際に学会や研究会などで話を聞いたことがある人の本を買う」ことなのだ。

完全にぼく向けの話であり万人におすすめするやり方ではないのだけれど、ぼくはとにかく、「何度か会ったことがあって、声を聞いたことがある人の本は、著者の声が聞こえてくるような気がしてすごく読みやすい」のである。

つまりは知っている人の本を買う、ということだ。



もちろんこの技が使えないタイプの教科書はいっぱいある。洋書とかだと著者に会ったことはまずない。

けれども日本人の医者が日本人の医者のために書いた本の場合、そこそこ知っている人がいる。あるひとつのジャンルで、どの教科書を買うべきか迷ったら、声がわかる人の本を買うとその後なんども参照して役立てることができる。



学会などでセミナーを聞いて「ああー、この人のいうことわかりやすいなー!」と思ったらすかさずその人の本を買うのだ。これで外したことは一度もない……。




ただおもしろいことに逆のパターンもある。

本で先に知った人の話を聞きにいったら意外とおもしろくなかった、みたいなこと。

こういうときは先に買った本が色あせてしまうから不思議だ。ある意味もろ刃の剣なのかもしれない……。




以上の内容はおそらく一度ブログに書いてるけどまた書いておく。何度か書くことが大事だからね。

2019年12月19日木曜日

伸るか反るかのはなし

年末進行一段落。

墾田永年私財法。

武士は食わねど高楊枝。

小林製薬糸ようじ。

リズムとしてはこういうかんじ。



2019年もいっぱい外で働いたけれど、内にこもって思索を深める時間もけっこうあった。

一番足りなかったのは対話の時間かもしれない。外と内の境界にあるはずの人や物、そういったものから目をそらしていた気がする。極端な1年だったと思う。

もっとも遠い人とコミュニケーションすること。もっとも近い部分とコミュニケーションすること。

ほんとうは、「適度な距離の君」とやりとりしなければうまくいかないのだろう。

孤立はしなかった。孤独でもなかった。

でもぼくはどこか弧状だったと思う。まっすぐではなかった。弓なりにしなったり、背中を反らせたり、少しずつ目的地を回避したり、砂浜になったりした。




2020年はさまざまな事情があって外での仕事を大幅に減らしている。

一番でかい理由は職場の病理医が減って仕事が増えるということ。仕事というか、解剖当番のために自宅待機する日数が増える。だからあまり出張できない。まあ今までが外に出すぎだったのだが……。

そういえば、ひとつ新しく、大きな仕事をはじめる。守秘義務が強く、いずれプロジェクトがうまくいくまではさすがのぼくでも詳しいことを書けない。たいていのことは書いてきたけれど。今回はぼくの論理だけではないから書けない。

今までどれだけ自分だけの論理で動いてきたか、みたいなことを同時に考える。べらべらなんでもしゃべって顔を出して物を書いて。ぼくはわりと自分だけの論理で動ける場を作るために、遠方と直近以外の関係をばさばさ切り落としてきたふしがある。




忘年会スルーという言葉はいかにもツイッターで流行りそうだなと思った。

ぼくも長年、人間関係をスルーしてきた部分がある。人間ではない関係がその分強まった。遠い人ほど仲が良く、自分とだけケンカをする。そろそろ対話をしておかないと、弧状で紐状であるぼくは、どことも交点を作らないまま、レールのない場所を曲がりながら進んでいく切ない999みたいになってしまうだろう。人生という名のSLというフレーズ。電車は決して交わらない。ブラックジャックの最終回がそれだった。すべて先にやられている。ぜんぶ誰かが通った後である。降り立った月面にすでに無数の足跡がある。古代遺跡の先に潜む聖櫃を開けたら中に怪盗キッドのカードが入っている。

2019年12月18日水曜日

病理の話(396) 病理医の話法

ある本を読んでいた。著者が病理医。

その文体がいかにも病理医だなあーと思った。

生命や病気のことを語る際に、

「大きいほうからミクロに向かって、順番に構造を語っていく」のである。

「ロングショットからはじめてだんだんズームアップしていく」のである。



まずは全体を俯瞰して、これから見るものがどこにあるのか、位置を確認。

肝臓だったら、右上腹部に星印を付けて、視線を誘導する。

肺に病気があるなら、肺のさらにどのあたりにあるのか。

右? 左?

右肺だとしたら、上? 中? 下?

右肺の上葉ならば、さらに、体の中枢(肺門部)に近い方? 遠い方?

じわーっとカメラをズームアップしていく。



肺の中には肺胞とよばれる小部屋が無数に詰まっている。

その中に、口からつながった気道が、気管となり、気管支となり、木の枝のように分岐して、入り込んでいく。

あたかも木のようだ。

肺胞が木の葉にあたる。気管支・細気管支・末梢細気管支……は枝にあたる。

同じ肺の細胞といっても、葉っぱと幹・枝とでは機能が異なる。

そしてもちろん形も異なる。

まずは細胞がどういう形を作っているかを判断する。そろそろ顕微鏡が必要だ。

細胞が横に手をつなぎながら作っている構造が、「部屋」なのか、それとも「何かの産生工場」なのか、はたまた「パイプ」なのか……。

ミクロの組み体操には必ず意味がある。それは機能を達成するために必要な構造だからだ。

肺の中には空気が入ってこなければいけない。だからスペースをつぶしてはだめだ。「空白」が確保されなければいけない。

そのためには細胞がぎっしりと詰まってしまってはだめだ。

手を繋ぐ方向を決める。少なくとも一方にはスペースが確保できるように。

そのような細胞の「極性」とか「軸性」みたいなものがだんだん見えてくる。

拡大を上げると見えてくる。

遠目にみて「なんとなく部屋を作ろうとしているなー」と思ったら、ぐっと拡大すれば、「その部屋を作るために必要な細胞自体のカタチ」がわかる。




そして細胞がなんらかの構造を作り上げる上で、細胞は自ら、機能にあわせたタンパク質を作っている。

タンパクそのものはもう小さすぎて、顕微鏡ですらうまくみられない。レゴで作った城をズームアップして、レゴ一個一個は見えるようになるけれど、「レゴ1個を作っているプラスチックの分子」まではどうやったって見えない。

でも見えなければ可視化すればいいのだ。特定のタンパクにくっつくような物質をふりかけて、そのタンパクがあるところだけを光らせる。

免疫染色。

これを使って、「ミクロの組成」をも目の当たりにする。どんどん細胞のことがわかっていく……。





以上の一連の、「だんだんクローズアップしていく話法」こそが、病理医の真骨頂かな、と思うことがある。まあ人それぞれだけど。ときには、「超ミクロの話からスタートするタイプの病理医」もいるからね。

この話法のメリットは、サイズごとに着眼点や話題を整理しやすいということ。

デメリットは、ひとつの話題について話すだけなのに妙に長くなるということだ。




つまりぼくがいったんしゃべると止まらないのは性格ではなくて病理医としての性質なのである。あきらめてほしい。

2019年12月17日火曜日

ぼくは専門家になろうとしている

「難しいことを簡単に説明する」という仕事は大きなニーズがある。なぜかというと世の中には難しいことが多すぎるからだ。

そしてこれはもう近代文明ができてこのかたずーっと言われてきていることだけれども、「専門家のいうことはわかりにくい」のである。

「わかりやすくしゃべってくれる専門家」がいれば、どれだけいいだろう……と、誰もが自分の専門外の話について、望んでいる。

それは病気についての情報かもしれない。育児についての情報かもしれない。税制度についての情報かもしれない。ラグビーのルールについて。最新のヒップホップ事情について。ワインの銘柄について。AIについて。

とにかく専門家の話はハードルが高くてよくわからない。なぜもっとわかりやすくしゃべれないんだろう? と、ずっと不思議だった。

……だれもが赤ちゃんから子どもを経由して思春期に振動して、だんだん大人になるにつれて何かに詳しくなっていってるわけで、今、自分が何かに詳しいとしても、生まれてからずっと詳しかったわけではないだろう。

だったら、自分がもっとよく知らなかったときから、今に到るまでをふりかえって、どうやってその知識を身につけたのか、順に追っていけば、ふつうにわかりやすくしゃべれるものではないのだろうか……?




なんてことをずーっと考えながらここまでやってきたんだけれども、たとえば病理の話というのを二日に一回書こうと思ってやってきて、今こうして振り返ると、読者として医者や研修医や医学生を想定しているわけではないのに、なんだかしょっちゅうわかりにくいことを書いている。

ぼく自身、ちっともわかりやすく書けていない。

もちろん文章力というか編集力というか国語力の問題はあるにしてもだ。

あれだけ「専門家の書くことはわかりにくい、そんなんじゃだめだ」と言い続けてきたわりに、ぼくが何かを書くときの視点が、そもそも、一般の人を向いていないことがあるなあ、と気づいた。

いつのまにか専門家のマインドになってしまった。

なぜだろう。なぜここにたどり着いたのだろう。

ぼくは今、病理というひとつのテーマについてずーっと考えていて、その考えを更新し続けていくことに強い魅力を感じている。

そんなぼくは、「今から病理に入ってこようとする人」との距離がどんどん開いている。今まで数多くの専門家たちが、そうだった(そう見えた)ように。



自分が知っていることの、一番難しくて、一番おもしろいことをしゃべりたい、という欲求は、三大欲求なみにでかい。ああそういうことだ。「みんなに向けてわかりやすくしゃべること」が社会的意義だとか使命だとするならば、「自分が言いたいことを言うこと」は欲望につながった本能みたいなもの。

本能を抑え込まないとわかりやすくは居続けられない!

くっそ、そういうことだったのか! 



なら本能くらい制御しろよ、てめぇは大脳新皮質が完備してないタイプのサルかよ。

そう思うのでまたわかりやすく書くこともあきらめずにやっていきたいと思う。しかしこの、自分が手に入れて温めているものをそのまま書き散らしたいという欲望のでかさには辟易する。こんなにわかりづらく書きたくなるものだったんだな。知らなかった。ときどき目にする「専門家なのに一般向けのエッセイ書いてる人達」がいかにバケモノかということを再認識してあらためて驚愕している。

2019年12月16日月曜日

病理の話(395) 脳神経の2つの役割

こないだから読んでいる本、『タコの心身問題』 https://www.msz.co.jp/book/detail/08757.html に書かれていて、おもしろかったこと。

ぼくらはみんな脳を持っている。

脳のはたらきと言えばなにか?

思春期真っ盛りのこじらせた大学院生とかでない限り、たいていの人は、以下のような答え方をするだろう。

「考えること!」

あるいは、こう答える人もいるかもしれない。

「情報を処理する!」

さらには、こうやって考える人もいるだろう。

「手足を動かしたりする!」

これらは全部正解である。脳は中央制御室であり、心と体のコントロールセンターだ。そして、どの答え方をしてもまったくかまわないのだが、よくよく考えると、これらの答えは意味が微妙に異なっている。

考えることと、情報を処理することは、ちょっと重なっているかもしれない。似ていると思う。

しかし、考えることと、手足を動かすことは、必ずしも同じことを言っていない。おわかりだろうか?




脳神経にはおおきくわけて2つの役割があるというのだ。ぼくは上記の本を読むまでそんなことを考えたコトがなかった、衝撃だった。

「感覚神経から得た刺激に対して、運動神経で応答するような、感覚→運動をつかさどるしくみ」

と、

「歩くときに手足や体幹や心臓などを協調させて、多くの細胞がいっせいに働けるように音頭を取るしくみ」

がある。二つ目のほうが盲点だ。




7人乗りのボートをこぐときに、すべてのこぎ手がタイミングをあわせてせーの、せーのとこぐように、複数の細胞や器官が何かひとつの目的に向けて協調する。この部分はとても大事なのだということを完全に失念していた。

感覚神経によって何かを感じ、それに応答するために運動神経で指令を出すという、体外に対して体内を反応させるメカニズムばかりイメージしていたけれども、体内のあちこちにちらばったさまざまなメカニズムを統合し、あたかもオーケストラで指揮者が指揮棒をふるように、あるいはサッカーで監督が決めた戦術にあわせてフォワードとミッドフィールダーとディフェンダーがそれぞれ動き出すように、呼吸を合わせることもまた脳なのだ。

ハァー言われてみりゃまったくその通りだ。

ネットワークにつながったセンサーを体の境界部分に配置して、外部刺激と反応し続けるだけならそれは知性ってより反射だ。

歩くときに右手と左足が同時に前に出て、体を自然にねじらせて重心のバランスをとる、みたいな複雑な運動をするのも、脳の立派な役割だ。いやー気づかなかったな。



タコの心身問題に限らず、最近読んでいる本には、脳が何をしているのかがけっこう細かく書かれていて、今まで雑に脳のことを考えてきたぼくにとっては学びが大きい。

『脳だけが旅をする』なんていうブログを書いておいてあれだけれど、ぼくは旅に出る脳のことなんてこれっぽっちもわかっていないのだ。まるで思春期を少し通り過ぎた子どもをもつ親の気分である。

2019年12月13日金曜日

脳だけが旅をする

「note感謝祭」をYouTubeで聞きながら働いていた。

https://www.youtube.com/watch?v=AB717GCv4mI&feature=youtu.be

文藝春秋や早川書房の人がnoteの企画でかなりおもしろいことをやっていてへぇーと思った。noteは今までのSNSと比べて「クリエイター率」が高いのだという。書くこと、そして読むことに対し抵抗が少ない人が多く集まっている。noteを使って新たな書き手を発掘したり(文藝春秋に素人が掲載される可能性があるなんて夢のある話だ)、逆にnoteを使って新たな読者を開拓したり、といった新しい商売の形がいろいろと提示された。


noteの優位性についてはある犬からも聞いたことがあった。これから何か文章で勝負するときにプラットフォームとして使うならnoteがいいだろうという話。そのことをそのまま、あるかなりでかいアカウントの人に伝えたら、彼はすぐにピンときたらしく、noteでエッセイをサラサラとかきはじめ、1週間もしないうちに編集者を捕まえて書籍化までたどりついてしまった。ぼくはそのときnoteの勢いを実感した。そして同時に、

「文芸は今やフローなんだな」

という気持ちを強めた。



何度も何度も読み返す、お気に入りの小説を本棚に一冊だけ……というスタイルでみんなが暮らしていては本はいつまでも売れない。出版社や書き手は、猛烈な勢いで流れ去っていくコンテンツの大河でどれだけ目立って浮き上がってくるかということを考えているし、現時点でnoteは、川面に目を向ける人が集まってくるサービスであり、大河で目を引きやすいブイを打ち込むタイプのSNSなのである。



でもなあ。医療情報はフローでは困るんだよな……ほんとは……。

「一家に一冊、家庭の医学」が、本棚の中で勝手に分厚く改訂されていく、みたいな、各人がいつでも使えるようにストックされている状態で、かつ内容を更新し続けるというのが医療情報の根幹であって、文芸のように「次から次へと魅力的なコンテンツをフローさせる」では話にならないのである。

でもなんかnoteには可能性を感じなくはないんだよなーと思ってとりあえずぼく自身はnoteを「異業種の人々との往復書簡」と「本の紹介」にだけ使っている。医療情報の中でもフローしてかまわないジャンルのものと、ストック性が高くないと使えないものとがあって、異種格闘技戦的対話で視点を増やす「文通」と、多様な書き手を紹介する「書評」についてはフローしたほうがいいんじゃないかなという判断あってのものだ。

でもこれであっているのかなあ、と、書きながら思考を練る、そのために「脳だけが旅をする」を使っているふしがある。脳だけが旅をする。

2019年12月12日木曜日

病理の話(394) 診断とはなんですか

2020年の1月16日、三省堂書店神保町本店でイベントをやる。

http://jinbocho.books-sanseido.co.jp/events/5163#Rje4jnJ.twitter_tweet_ninja_l


國松先生と対談させてもらうのだ。すごいことだ。ご縁があるだけでもありがたい。

國松先生の本はおもしろい。今回、イベントでとりあげるのは『仮病の見抜きかた』という本だが、小説仕立てで非医療者でも読めるくせに内容がゴリゴリの医学書なのだからびっくりする。どういう脳をしてたらこういうものが書けるんだ。おどろくばかりだ。版元が金原出版(医療系)。これ、医書出版社ではなく、もし講談社あたりから出ていたら、ふつうに芥川賞の候補になったのではないか? まじで。たとえば『これはペンです』も芥川賞じゃん。ベルクソンの第一縮約後の表象を芸術と呼び、表象を扱う芸術的文芸に芥川賞が与えられるのであれば、『仮病の見抜きかた』なんておもいっきり選考対象作じゃん。せめてノミネートしろよ。選考委員のアンテナ短いんじゃないか?

……くらい、熱く、のめりこんでしまう本である。おすすめ。



ほかにも『病名がなくてもできること』という医学書があってこれまた激烈におもしろい。愛読書レベル。

國松先生の本にははずれがない。Amazon著者ページを貼っておく。

https://www.amazon.co.jp/%25E5%259C%258B%25E6%259D%25BE-%25E6%25B7%25B3%25E5%2592%258C/e/B06XZKY5FW%3Fref=dbs_a_mng_rwt_scns_share




いいだけ宣伝をしたが、イベントについてはぼくがこの記事を書いている時点ではまだ申し込みが開始されていない、記事が公開された時点では申し込みははじまっている(詳細は一番うえのURLを参照)。ということで、これを皆さんが読んでいる今日、もし対談イベントが満席になっていなかったとしたら……うん、ごめんねってかんじでめちゃくちゃに謝る。國松先生が出るイベントで100名分しか席がないなんて信じられない! 少なすぎる! というのがぼくの感想だからだ。それに、開催地が医書のメッカ(神保町)だぞ。2時間で埋まるに決まってる。埋まらないとしたらそれはぼくがよっぽど医書界隈で嫌われているとか、神保町に巣くう編集者たちが結託してぼくの悪口を言っているとか、そういう独特の理由がないと理解できない。

だからここからは満席前提で話をする。つまりもう申し込もうったって遅いよってことだ。めんぼくないけどあきらめてほしい。今日の段階で申し込めるわけがないのだ! ……たぶん。




「診断とはなんですか?」

この質問に多少なりとも答えられると思って対談を受けてしまった。しかし、その後、いろんな本を読むうちに、「診断」なんていう哲学にぼくなんぞが何か偉そうなことを言えるものなのだろうか、と、はなはだ心配になってきた。今はもう膝がガクガクしている。これは比喩ではなくほんとうである。冬だからね。

診断というのは名前をつける作業である。何につけるかというと、人の苦しみに名前をつけるのだ。ただここが難しいところで、実際には、「まだ苦しんでいない人」に名前をつけることもある。高血圧とか、脂質異常症とか。あるいは、苦しみがおわったあとに名前を後付けしなければいけないこともある。名前がついていなくても苦しいものは苦しい。名前がついたからといって苦しみが癒えるとは限らない。

……でも癒えることもあるのだ。ここが難しいところである。名前をつけるだけで足並みが揃うという効果もある。医療者たちがひとつの診断名に向かって行進することができる。逆に名前がなかなかつかないと医療者たちは困ってしまうが、名前がつかなくても動けてしまうという論理も医療の世界には厳然として存在する……。

何を言っているかというと、診断というのは医療そのものではないということだ。医療の一部でしかない。しかし、確かに医療を医療として際立たせる部品でもある。たとえばぼくのように、医療の三要素である「診断」「治療」「維持」のうち、診断しかしていないタイプの特殊な医療者もいる。

とにかく「診断とはなんですか?」を語ろうと思うとぼくは「こう」なってしまう。あっちへひょこひょこ、こっちへひょこひょこ、流浪と放浪の末に思考は散逸して、自分が確かによりどころとしているベースキャンプなのだけれどもそれがどういう形をしているのか、どういうメリットがあってどういう弱点があって、どういう志向性があってどのように同期していけばいいのか、まごまご、よろよろしてしまう。

そのあたりを当代きっての「診断者」である國松先生にゴッリゴリに解説してもらってメッタクソに料理してやろうじゃないか、というイベントだ。どうだおもしろそうだろう? 難しそうで、脳が熱を持ちそうで、わくわくするだろう?


……みたいなニュアンスを感じた人によって、申し込みが開始されるとほぼ同時に満席になってしまっているはずのイベントなのだが、もしまんがいち、席が余っているということがあろうものなら……まあそんなことはないと思うのだが……このブログを読み次第、申し込んでおいたほうがいいと思う。


http://jinbocho.books-sanseido.co.jp/events/5163#Rje4jnJ.twitter_tweet_ninja_l

2019年12月11日水曜日

速報より詳報を

報道についての話。




ぼくらは情報を複数のルートから手に入れる。

それはあたかも、ぼくらの体の表面に張り巡らされた無数の感覚神経たちが、視覚、聴覚、触覚、味覚など、さまざまな刺激を複合的に脳に送り込んでくるように。

スマホから。ラジオから。テレビから。友人・知人から。電車の中で隣の人がしゃべっていた話を。街頭広告のビジョンに文字列として浮かび上がっていたものを。

交差点に立ちすくむようなぼくらは、無数の経路から入力される情報を受け止めて、世界を表象として理解する。





誰よりも早く情報を伝えるタイプの「速報」がぼくらのレセプターを歓喜させる。

一報が出た後の「意見」によって、ヘッドラインの奥に潜む意図を読みとろうとする。

「専門家のコメント」。

「解説委員」。

「知人のひとこと」が事件に色を添える。

「雑踏のつぶやき」によって世界が見違えたように変わる。

複数のスタイルの報道が組み合わさって、複雑な世界がようやく総体としてみえてくる。

ぼくらはそれをもはやどう知覚したのかわからなくなる。

けれどもなんとなく全体をぼうっと知覚する。




そういうものなんだ。

だからいろんな報道の仕方があっていい。

それを、わかった上で、あえていう。

ほかは知らない。医療系の報道に関してだけ、いう。





医療関連の報道に、「速報」はいらない。

やるなら「詳報」だけにしてほしい。

「速報」はうんざりだ。





「誰よりも早く出すこと」は、誰にとっての価値なのだ?

「一番乗り」は誰のためなのだ?

報道各社の先頭争い? 記者の功名? メディアのプライド?

そんなものはぼくたちにとって関係がない。

ぼくたち、というのは、医療者、ではない。世の人々である。医療を享受する側も、医療を提供する側も、みんなだ。

新しい治療が出現したことを世界に一刻も早くつたえれば、その情報を待ち望んでいた患者が救われる……?

そんな限定的なシーンがどれだけあるというのか。

こと、医療情報に関して、「誰よりも早く伝える理由」が見つからない。「独占スクープ」は記者のためでしかないと感じる。





もちろん、医療の報道をするのもまた人だ。

伝え続けるためにはモチベーションがいるだろう。立場がいるし、地位がいるし、おそらく名誉もプライドも必要であろう。

誰よりも早く情報を出すことで、その人の報道力が世界に認められれば、それだけ、次の情報がよく伝えられる、ということもあるだろう。

そんなことはわかっている。

でもそれは本当に大事なのか? もう一度考えて欲しい。





やさしく丁寧に、詳しく綿密に伝えること以上に、価値を作りたくなることはわかる。

でも、それは、報道側の理屈ではないか?

ほんとうにそれが最善手か?

医療を伝える仕事は医療そのものだ。

「誰よりも早く伝えること」は、報道の論理では大事なのかもしれない。わかる。

けれどもそれが医療を支えているか。

人々のためになっているのか。





医療報道にたずさわる人もまた医療者だ。

医療者は自らを守らなければいけない。自らが働きやすいように、働き続けられるように、自らをメンテナンスして、評価を集める必要がある。

けれども急がないでほしい。

詳しさが整うまで。





ぼくのこの感情が伝わらない人とは、申し訳ないが、一緒に歩きたくない。これはぼくのエゴである。エゴだから正義ではない。誰も従わなくていい。好きにすればいい。

けれどもぼくは、「医療情報を早く伝えようとする人」のことを、わりと、信用できないでいる。その感情を出力することは、誰にも止められないはずだ。たとえこの感情が、世の多くの人にとって、受け入れられないものだったとしても。

2019年12月10日火曜日

病理の話(393) 病理医が本当に足りない場所はどこか

実は最近、病理医は増えてきている。

ぼくがツイッターをはじめたのは2010年11月、病理医ヤンデルというアカウントをはじめたのは2011年4月なのだが、このころ病理専門医の数は、たしか全国で2100人程度だった。

アカウント開始当初は病理医のことを広報するアカウントを自称していたので、この数字についても何度もツイートした。だから2100という数字を、よく覚えている。

その後、『フラジャイル』の影響力のおかげで病理医の知名度はバカ上がりし、ぼくは広報アカウントを名乗ることをやめてしまった。

で、今、病理専門医がどれくらいいるかというと、なんと2500人くらいいる。

この8年間で400人も増えたのだ。たった400人、と言うことなかれ。20%以上アップしたと考えればすごいではないか。

病理専門医はもともと60歳以上の人が多い世界だ。8年間でみんな年を取った。当然退職した人たちもいっぱいいた。なのに、総数で400人増えた。増加分の大半が30代前半である。若返りにも成功しているわけだ。

病理医の世界は勧誘に成功しつつあると考えてもよいと思う。今、けっこう、人気なのだ。



ただ、現場ではまだまだ「病理医は足りない」と言われ続けている。

まず、増えた病理医の大半が都市部にいる。というか東京にいる。それ以外の地域で病理医が足りている場所は極めて限られていて、研修先として人気がある一部の病院をのぞけば、地方病院ではたとえ大学であっても十分な量の病理医がいないことも多い。

一方で、病理医がいなくても、検査センターにお願いすれば、郵送で病理診断をうけることができるので、現場ではそれほど困っていない、という話もある。

病理医は、往々にして、「いないとありがたみがわからない」タイプの仕事なので、元から病理医がいなかった場所ではニーズがあまり叫ばれない。




のんきに働いているぼくから見た個人的な感想を付け加えておこう。

今、病理医が足りないと嘆いている人がどこにいるか? 一番病理医を熱望している人はどこのだれか?

それは、臨床の医療者たち。臨床医、放射線技師、臨床検査技師など、病理医ではない人々にこそ、ぼくらは求められている

「病理医と一緒に働いた方が、自分の診療レベルはもっと上がるだろうなあ」と感じる現場の医療者たち。彼らからのニーズは非常に具体的で、強烈である。

病理学会のひとびとや、ぼくら病理医たちが、「もっと病理医が増えてぼくがヒマになればいい」と願っているのとはちょっと欲望の種類が違う。




ぼくは幸いTwitterでくだらない人間として認知されているせいか、クソリプを浴びることも多く、わけのわからないクソDMもいっぱいもらうけれど、実は、現場の臨床医療者たちから相談をうける機会もすごく多い。あまり普段こういうことは書かないようにしているけれど、多いときは1か月で20人以上から相談をうける。

その具体的な内容はこうだ。「病理医にこういうことを相談しても失礼にならないだろうか?」「遠方にいる病理医にメールを送って相談にのってもらうことは可能か?」「ぼくの論文の病理の部分を相談するとしたら誰に聞くのがいいか?」

病理医や病理研修医たちからの質問よりも、「病理医を使いたい医療者たち」からの質問のほうが圧倒的に多いのである。毎月、強いニーズに晒され続けている。




若い病理医たちがときおり悩みを語ってくれることがある。「この先病理医って食っていけるんでしょうかね」。「病理医としてどこで働いたら楽しいと思いますか」。

それに対して最近のぼくはこう答える。「病理医自身が思っている以上に、ぼくらは現場の病理ニーズに応えられていない。絶対数が少ないから、臨床の人々の疑問をとりこぼしている。病理医を名乗ってまじめに勤務して、いつでもご相談くださいという窓口をちゃんと開いておけば、必ず頼られるよ」。




もし、今、臨床の医療者たちや研究者などの「よき隣人たち」から何の声もかからないという病理医がいたら、その人はたぶん、「窓口を開けているように見えない」のだと思う。勤務先の都合、あなたの社会的なポジションなど、細かな理由はいろいろあるだろうけれど。ちょっとだけ窓を開けてみたらいい。1年もせずにあなたはそのコミュニティで引っ張りだこになる。

そして、コミュニティで引っ張りだこになる、というのが、病理医という特殊な職業のもっとも誇るべき、医療界でうらやましがられるべき特性なのである。

2019年12月9日月曜日

歩いても歩いても

脳科学の本を読んでいくと精神科の医学にぶちあたり、そこを掘り進めていったら哲学との境界がわからなくなった。

かつて、自然科学が哲学と一続きの状態でスタートし、だんだん細分化して、物理とか数学のような、一見すると哲学感の一切ない学問として特化していった、なーんていうストーリーを考えていたけれど、物理や数学を応用しながら生命科学を考え続けていたら、結局その先に待っていたのは哲学だった。ぼくなりに一周したんだなあ。

学問の世界って無限に歩き続けていられるんだけど、これって、「地球の表面積は有限だけど、球体の表面は永遠に歩いていられる」のといっしょで、実は面積的にはある程度の限りがあるのかもしれない。

そして、限りある面積の中を動き回っているからといって、同じ地点にたどり着いたらいつも同じ風景が見えるかっていうと、きっとそういうことじゃない。

たぶん、「一度たどり着いたことのある場所」というタグがついたらもうそれは前の場所でもないのだ。どこを通ってどの角度でたどり着いたかによって、見えるものはぜんぜん違う。同じ画角の中に同じ風景がおさまっていても、ぼくの脳からトップダウンされてくる情報が異なれば、見え方は変わる。




そしてきっとこの世界には地球が何億個もあるんだ。




2019年12月6日金曜日

病理の話(392) ほどよい漬物的発想で血液をつくる

人体内には血液が必要だ。全身に張り巡らせた血管の中に、機能に満ちあふれた液体を流し込んで、上水道的に栄養や酸素を行き渡らせ、下水道的に老廃物や二酸化炭素を回収している。

とんでもなく合理的なシステムだ。血液に対する依存が少々強すぎるようにも思うが。

この血液、単なる液体ではないというのは世の多くの人がとっくにご存じであろう。水を流すのとはわけが違う。





ここで突然だが漬物のはなしをする。

いまどき自分ちで漬物を漬けている人がどれだけいるのか知らないが(冷蔵庫で浅漬けくらいは作る人もいるかなあ)、漬物の作り方というか発想はいたってシンプルで、

・野菜などから水分を奪う
・ついでに塩味を加える

ことで味わいを「濃縮」し、「保存」が利くようにしている。ここで用いられている物理法則は「浸透圧と水の移動」だ。

野菜の表面に塩をふる。すると、野菜の細胞表面に「濃い塩水」が付着する(※注意:野菜も細胞からできているのだ!)。

野菜の細胞内には「塩分がほとんどない、水分」が含まれている。

野菜の細胞膜・細胞壁を境目として、外側に濃い塩水、内側にうっすーい塩水がある状態になる。

すると、浸透圧の低い方から高い方へ……。

塩気のうすい方の水が、塩気の濃い方にむかって移動するのである。細胞の中に含まれていた水分が外に出て行く。

すると野菜の細胞が水気を失ってシワッシワになる。結果的に濃縮がかかる、というわけである。




この「野菜に塩ふったら漬物になる」というのはそのまま人体にもあてはまる。変な話だが、血管の内外で浸透圧に差があると、水分が移動してしまうのだ!

たとえば毛細血管は各種の細胞と接している。このとき、細胞の中身の「塩気の濃さ」と、血管内の「塩気の濃さ」に差があれば、漬物と同じように水分が移動する。

血液がうっすーい真水に近い状態だと細胞の中にどんどん水が移動していってしまう。

逆に血液が濃いぃ塩水だと、細胞から水気がすいとられる。




もっとも血液の場合には、濃さを決めているのは「お塩」だけではない。さまざまな物質が「濃さ」に関与する。老廃物も含めてね。そして、内容物の濃さによって血管内の水分量も、ひいては人体のあちこちにある細胞内の水分量も変わる。となると、人体を漬物にしないために、あるいは水饅頭にしないために、血液の濃度を調整する臓器が絶対に必要なのだが、それがみなさんご存じの、腎臓なのであった。


2019年12月5日木曜日

書店かも

もうすぐ本がいっぱい届くのだ。ジュンク堂書店大阪本店で買った本たちが。

社会書コーナーの方のツイッターを拝見していたら、「かも書店」という企画をはじめたというので気になっていた。そして見に行った。すごいいい企画だった。一度ではとても足りない。

https://twitter.com/Dr_yandel/status/1198169370326794241

上記はぼくのツイートなのだが写真をみてほしい、というか別にツイートに飛んでもらわずとも、自分で撮った写真なのだからここに載せればいいのか。


けっこうなボリュームである。これが全部選書……。



文学、社会書、絵本、哲学、実用、科学などジャンルも幅広い。あわてて買いまくったがもちろん選書の5%も買うことはできない。

喜びよりも辛さが勝る。なんてこった。こんなにいい本がいっぱいあるのにぼくは全部読めないかもしれない。

もう出会えないかもしれない。

今買わないとあとで後悔するかもしれない。

無数のかもが飛び交った。だからかも書店なのか……(違います)(写真は許可取得済み)。




さてそんな中でもとりわけ、ぼくが今までほとんど読んできていないジャンルが、海外の作家が書いた本だ。かろうじてカレル・チャペックだけ読んだことがあるのだが、かも書店にあるチャペックの本はいずれも未読。

そもそもアガサ・クリスティの一部とコナン・ドイルの一部、そしてSFのごく一部を除くとほとんど海外の本を読んだ記憶がない。けれども子どものころの記憶を思い出せば、果てしない物語にしても、モモにしても、魔法のつえにしても、全部海外児童文学だったわけで、ぼくのルーツはそこにあるはずなのになぜ今まで手にとってこなかったのか?

自分で自分に答えを出してしまうようであれだが、たぶん最近のぼくは、本を「人で読んでいる」からだろう。作者の顔が思い浮かばない本に手を延ばす機会が減っている。誰が書いたから読む、という基準。別にそれで何もかまわないんだけど自然と日本人に寄っていってしまっていた。



かも書店の選書主である浅生鴨は海外の文学もよく読んでいると思われる。その彼の文章が好きなぼくはそろそろ海外文学を読めばいいのだ。きっとおもしろいのだから。こうやって、本屋を通じて、選書を通じて、人生が違う方に折れ曲がっていく。

2019年12月4日水曜日

病理の話(391) 虫垂の味見

たとえば、乳輪であるとか、脇毛であるとか、「それって何の役に立ってるんだよ……」っていうやつ。たぶん、ある程度の意味があって残っている。

これはもういきなりぼくの想像になるんだけれども、乳輪というのは、視力があまりよくない新生児が乳首の位置をきちんと視認するために必要だったのではないかなと思うのだ。赤ちゃんにとってバリアフリーな看板。

だったら男性には必要ないべや、と思うわけだが、人体というのはもともと女性型が基本で、Y染色体のパワーでそれを無理矢理男性に改造しているので、女性だったときの名残があちこちに残る。



脇毛とか陰毛については、毛そのものに意味があるというよりも汗腺と毛のコンビネーションに意味があるのではないか。これもどこかには書いてあるのかなと思うが、いちおうぼくの推測を書いておくと、脂分の多い汗をかく場所には毛も必要なのだと考えている。汗に含まれる油脂分で汗の出る穴が詰まってしまうと、それはニキビ(局所の感染症)になる。そこで、汗の出る穴には一緒に毛を用意しておき、毛が伸びるにつれてベルトコンベアで運ばれるように古い油脂も押し流してしまう。これ考えた人えらいな。神か。

脇とか陰部というのは、機能としてにおいを出す。元々はおそらく体調や清潔状態を伝達する上で役立っていたんじゃないかな。フェロモンみたいなものだ。そして、においって脂分なんだよね(ラーメン屋の壁が臭うのは完全にアブラだろう)。




で、そういう話をいろいろと考えていくと、虫垂にぶちあたる。小腸が大腸になるあたりでピヨッとわき道に生えている袋小路だ。なんの機能をもっているかほとんど知られていない。おまけに、一般に「モウチョウ」と呼ばれている病気の正式名称を虫垂炎というように、ここはときおり痛い病気の震源地となる。

だからモウチョウで苦しんだことがある人はたまにこう言う。

「なんで虫垂なんてものがあるんだよ。役にも立ってないくせに。」

英語でもappendix(おまけ)というくらいだ。本当に役に立っていないものだとばかり思われていた。

ただ、近年、この虫垂もまた立派にある程度の機能を果たしているのではないかと考えられるようになった。この話は何度かブログに書いているけれど、けっこう知らない人が多いのでまた書く。

虫垂の機能は、小腸から大腸に押し出されてきた食塊を「味見」することだと言われている。

シチューの味をみるときに全部飲んでしまう人はおるまい(ギャグマンガならともかく)。普通は、少しだけスプーンですくって味をみる。

それと同じように、大腸の中を流れていく食べ物の一部を虫垂がちょっとだけ拝借するのだ。そして、袋小路で検分する。小動物が巣穴に食べ物を持ち込むイメージか。

そこに何か悪いものは含まれていないか。体に対して毒性をもつものを残していないか。食べ物そのものに対して、さらに、小腸から大腸に移行する部分に住む「常在菌」たちを検分している。

虫垂には大量のリンパ球(白血球の一種)が集まってくる。ほかの腸管にくらべて、回腸の終わりの部分と虫垂にはリンパ球が多い。こいつらの機能がどうやら腸管内容物の検閲らしい、とわかって、それまで役立たずだとかおまけだとか農家の四男坊(©ブラックジャック)だとか言われていた虫垂にもけっこうな役割があるんだと言われるようになった。




味見は、慣れてくると、しなくてもよくなる。

だから虫垂をちょんととってしまったところで体調が大幅に悪くなることはない……。今のところそう考えられているし、多くの人が実際に虫垂炎などによって虫垂を手術で取ってしまう。その後めちゃくちゃに体調が悪くなったという話は聞かない。

けれどまあ虫垂は味見用のスプーンみたいなものなのだ。乳輪もそうだけど、あるものには、それなりに意味があるということである。

個人的には、手の甲、とくに指にはえた毛なんかは退化して消えて欲しいと願っているのだが……。

2019年12月3日火曜日

本嫌いと仲良くなれるかどうかという話

『断片的なものの社会学』があまりにいいのでぶっ飛んでしまった。これを書いている時点でまだ読み終わっていないが、帯に書いてあるように、早くも読み終わるのがつらい。むかし、「名作保証。」というコピーがあったが(初代MOTHERだっけ?)、そういう本である。すごい。

読み終わるのがつらい本なんてめったにない、と書こうとして止まった。そうでもないな。ぼくけっこうそういう本読んでる。最近読んだ本は当たりが多い。

こないだ、札幌にある大型の書店で面陳されていたベストセラーの中に、明確なはずれがあったのだが、ほかがいい本ばかりだったのでかえって脳内で目立っている。いまだに書名も覚えている(これは珍しい。普通はおもしろくなかった本は存在ごと忘れるのに)。

そうやって、自分に合わない本があるほうがむしろ普通だろう。でも近頃のぼくは、手に取る本がどれもこれもおもしろくて読み終わるのがつらいと毎回言っている。なんだこれは。

最近は世の中に名作しかない、ということか。

ぼくが単に今、読書がおもしろくてしょうがないだけ、つまり感動の閾値が下がっているのか。

おもしろそうな本を手に取るセンスが上がっている? うーん。

あっそうか、紹介してもらった本が多いからか。ぼくがもともと、「この人はいい本を読むなあ」と思ってフォローしている人がすすめる本なのだから、おもしろいに決まっているのだ。そうかそういうことだ。

本以外の理由で付き合いがある人に本をすすめられても当たり外れは大きい。

けれども最初から「読む本にあこがれて」ひそかにフォローしている人なのだ。その人がいいと思う本は高確率でおもしろい。

なあんだ。解決した。

これもひとつの中動態かなあ。能動的におもしろい本を選んでいると思っているのは自分だけ、みたいな感じ。




近頃はあまり教科書を読んでいない。購読している学術雑誌は読んでいるけれど、医学書のたぐいをきちんと通読する回数が減っている。職能がさびつくのはいやだ。けれども、「いい医学書」をすすめてくれる人の数があまり増えない。

だからツイッターで「いい医学書」を読んでいる人を探してフォローするようにした。たまにいる。

ほかにも「いい社会学書」とか「いい童話」とか「いい詩」とか「いい写真集」などを紹介している人もフォローするのだけれど……。

そうすると今度は、「あまり本を読まない人の意見」が入って来づらくなって、エコーチェンバー現象化するのである。まったく世の中ってのは難しいよな。どうやっても偏るようにできている。

2019年12月2日月曜日

病理の話(390) 液体と固体を生命の中で使い分けることについての雑感

これまだぜんぜん考えがまとまってないんだけど、書き始めてみる。

人体内には固体と液体と気体が混じっている。あたりまえやんけ。

でもこれ意味があると思う。




常温で固体である物質だけで大部分を作り上げれば、強固じゃん。

たとえば骨格にしても。筋肉にしても。脂肪にしても。

しっかりとそこに定着して、何かの構造をなす。

上皮細胞の中にはサイトケラチンという梁が通っている。間葉系細胞の中にもビメンチンという梁がとおっている。どっちも2倍にすると楽しいけれど今日の要点はそこではない。

細胞の中に梁がわざわざ存在するというのは、つまり、「何かを固く保つこと」で、なんらかの意味ある構造物を作り上げることが人体にとって極めて重要だ、ってことだ。




けれどそれだけじゃないんだね。人体の中には液体もある。血がそうだ。胃液や腸液もそうだ。膵液とか胆汁もそうだ。汗も出る。

これらはどうしても必要なのだ。なぜ必要なのだろう? 固体だけで人体が保てない理由はなんだ?

※ぼくがいいたいのは、「水分」の話ではなくて、「わざわざ流れて失うかもしれないもの」を人体が必要として使っているのはなぜかってことです。骨の中にも水分は含まれているよとかそういうことを言いたいわけではない(言ってもいいんだけどさ)。




まず、固体よりも液体のほうが、輸送がラクなんだね。栄養とか。酸素とか。

固体どうしが何かをやりとりするためには、基本的に、手渡ししかない。これだとスピードが遅いしエネルギーも使いすぎる。一方、液体ってのは勝手にしみこんだり拡散したり流れ出したりするから、うまくコントロールさえできれば、多くの物資をいっぺんにスピード速く運ぶことが出来る。

たぶんこの「情報のやりとり」ってのがすごい重要。

高い所から低いところへ。浸透圧の差に従って。ポンプを使っていっぺんに。蠕動(ぜんどう)を使って押し出して。

これだけでものすごい数の情報がやりとりできる。固体ではこうはいかない。

おまけに、液体に溶け込む電解質(イオン)を用いることで、電気的な力(電位)を情報として用いられるというのもでかい。筋の収縮とか。神経伝達とか。これらは液体が関与することではじめて利用できる。

生命は基本的に最初は海にいたので、発祥をさぐると、周りが液体だったところを固体で囲んで(膜で囲うことで)スタートしている。だから生命の中には液体が閉じ込められた。そして、とっくに陸に上がった今も、液体を利用して情報交換をしている。

陸に上がってからも、液体を利用した情報交換の部分はなるべくそのままにしている。こんな便利なシステムを捨てる必要がないからだろう。

ただしひとつだけ、陸に上がった後に、液体を使っていたやりとりをやめた場所がある。勘のいい人だとなんとなくおわかりかもしれない。




それは、肺だ。呼吸。ここは液体を使うのをやめて気体にした。

たしかに気体のほうがはるかに拡散速度が早い。液体を閉じ込めておかなくても気体の出入りさえ確保すればいいんだもんな。液体を用いようと思ったら穴はふさがないといけない(血管から常に血が流れ出ていたら死んじゃう)。けれども気体を用いれば穴をふさがないほうがいい。こっちのほうが便利だ。

でも気体でやりとりできるものには限りがある。まあ酸素とか二酸化炭素くらいしかうまく使えない。だからそれ以外のものが肺に入ってくる前に、ニオイで簡易的に選別できるようにはなっている。あと、イオンとか栄養を溶け込ませることも基本的にできない。




物体の三相を使い分けることで生命はなんかいろいろうまくやっている。自分を保っている。昨日までの自分を今日も保つこと(ホメオスタシス)。




あーこの話はまだまだ掘れそうだけどいったんここまでにしとく。

2019年11月29日金曜日

毛玉

気に入った服があると、あれこれといいわけをしながらもその服をひいきして、結果的に他の服よりもはやくボロボロにしてしまう。

駅やイオンの中に入っている店で買った、ベルトを通す穴はあいているがウエストにヒモも通っているので、ジャケットスタイルにも合わせられるしカジュアルにも着られるタイプのパンツ。

だいぶ伸縮性がいい。よくストレッチする。膝が楽だ。尻も楽である。座っている時間が長いのでありがたい。

ああこれはいいなあ、と思い、色違いを2本買って着回していた。そして秋口になると、中にワタの入った厚手のバージョンが出るのだ。これがとにかく最高なのだ。驚喜して3本買った。

もう、ひたすら着回している。職場に履いていく、休日に本屋に行くときに履く。出張のときもスーツとは別に持っていって履く。移動もラク。革靴にも合う。ほかのパンツをすっかり履かなくなった。

あまりに極端にこればかり履いていたせいで、3本買ったにもかかわらず早くもそのうちの1本が毛玉まみれになってきた。デスクでふと太ももを見たら違和感があり、目をこらすと無数の毛玉がこっちを見ていた。目玉みたいにいうな。




あれこの話書いたかな?

あちこちで文章書いて忘れている。

たぶんこのパンツの話はぼくにとって「気に入ったストーリー」なのだろう。

語るポイントがいくつかあり、誰も傷つかず、少し情景が浮かびやすく、共感も得られ、失笑も得られる。便利すぎる。ラクだ。

だから一度書いてもまたつい書いてしまう。

これって気に入ったパンツを履き続ける構図とそっくりだな。

となるとこの文章の中にもおそらく毛玉ができている。

毛玉ができて、知らず知らずのうちにクオリティが下がっている。けれどもぼくはそれを見てむしろ、「毛玉があるとなんだか暖かそうに見えていいじゃん?」などと本質を外した擁護をしたりする。




せっかくなので毛玉を仕込んでみた。

冒頭の6段落の最初の文字……の、アルファベット部分をならべると毛玉になる。

知らず知らずのうちに毛玉がそこにいて、黙ってこっちを見ている。

2019年11月28日木曜日

病理の話(389) 病気の話を書きました

照林社のエキスパートナースという雑誌に、「ヤンデル先生の病気の話」を書いた。

……いや、「ヤンデル先生の病気」の話ではなくて、ヤンデル先生の「病気の話」である。

別にぼくが病気にかかってその身の上話をしたというわけではないので安心してほしい。

https://www.shorinsha.co.jp/detail.php?bt=1&isbn=1208312119

上記リンクから、特集記事の序盤が試し読みできるのでお試しください。



企画書が届いたのが去年の8月、書き終わったのが去年の11月なので、書き終えてからまる1年が経過している。なので自分で読んでも新鮮な部分があった。よくできたと思う。それよりなにより、イラストレーターの熊野友紀子さんの世界観がめちゃくちゃいいので皆様にお勧めしておく。



今回の記事の内容は「病気ってそもそもなんなの?」という一本の太い骨、とその周りに肉付けされたもの、である。

「病気ってなんなの?」すなわち「病(やまい)の理(ことわり)」であり、これは病理学そのものだ。ぼくがこのブログでずっと書いてきた「病理の話」も同テーマで書いている。

書くのがすごい楽だった。なぜなら、最初から頭の中に風景があるので、その風景の中を歩いて見えたものを文章にしていけばそのまま原稿になるからだ。




なんでも、小説家の中にも、考えて書いているのではなくて、頭の中にできあがった世界を順番に描写していけばそれが小説になる、というタイプの人がいるという。

この話を聞いたときにふと思ったのは、

「ああ、つまりぼくの頭の中には、病理というナラティブがあるのだな」

ということだった。



ナラティブという言葉がずいぶんいろんな使い方をされるようになったが、この言葉はつまり「物語化する」ということだ。客観的に・論理的に組み上げた学問にも、実は客観的観測結果の時系列や、論理同士のつながりがあって、そこには一種の物語性がある。

ぼくの場合は自分の専門とする病理学にのみ、脳内でこの物語化ができている。だから病理学を語るときに、歴史とか、なれそめとか、あらすじとか、そういった語り方ができる。となると、導入部さえ編集者に決めてもらえれば、あとはストーリーをたどっていけばいつの間にか教科書の皮をかぶった随筆ができあがるのだ。これは助かる。



「なんだそりゃ、査読もされずに学問の話を書くなよ、論文を書けよ」

という反論が出るのはわかるのだが、医療情報発信はどちらかというと診察室を拡充する医業のひとつだと思っている。「外来に出てないで論文を書けよ」という人もいるので自分が免罪されるとは思わないが、たいていの人は、「そうか、病理医として外来に立とうと思ったら、本を書けばいいんだね」とわかっていただける。

外来で患者と話すこともナラティブ同士の突き合わせだろう?

だから患者向けに、あるいは医療者向けに本を書くときにもナラティブ・ベイストのやりかたはあると思うのだ。そしてそのナラティブというのは、「科学の持つ物語性」であるべきだ。




これから4冊本を出す。1冊は看護師・看護学生向けに書いた「病理の話」の教科書。1冊は中学生が読める文体で書いた「病気の話」の新書。1冊は消化管病理学のゆるめの専門書。1冊は肝臓の画像・病理対比の本。最初の2冊は単著、後半の2冊は共著(だがぼくが9割書いている)。

これらはすべて「病理の話」であり、ぼくの専門ど真ん中であっていずれも、脳の中にある風景をただ写し取っていけばいいだけだったので、原稿はたいそう楽だった。

なお、脳内遊覧を本にしていく作業は、これで一段落とする。




40歳前後でこれだけ本を書かせてくれたのは本当にありがたかった。しかしそろそろ後進に道を開くべきだろう。自分が専門とする領域について、日々の仕事の中で頭の中に組み上がった風景をライトな文体でまとめていくとき、大事なのは

「頭の中にきちんと何かを組み上げていること」

だ。つまりは自分の中にちゃんと学問を組み立てようとしていること。

でもこんなことはわりとみんなやっている。

ならばあとは、デスクに向かう時間さえあれば誰もがぼくと同じような仕事をできる。

もっとも、40歳前後の医療者というのはそもそもデスクに向かう時間が取れない。だからたいていの医者はそう簡単には本を出せない。脳内に科学があってもアウトプットする時間がない。

けれども今の時代、SNSによって、デスクに向かわずともスマホに向かえば小刻みに文章を残せるようになった。脳内風景を断片的に切り出して世に出す作業は、前よりもずっと簡単である。

となるとこれからは、ぼくより若く、活気があって、脳内にぼくとはまた少し違った風景を構築している人が、ライトな文体でどんどん本を書くだろう。それはたとえば腎臓の話でも子宮の話でも、甲状腺の話でも骨折の話でも、脳の話でも、なんでもありえる。



ぼくはもう十分にやらせてもらった。次はおじさんにしかできない、おじさん以外はやりたがらない、おじさんであればやっていても不思議はない仕事にシフトしていこう。

科学のナラティブをライトに語る切り口はぼくの持ち味のようだ。ここを純文学みたいに重厚にしていくのは、たぶん求められていない。けれども、ライトに書きながらも、読んだ人に何かを思ってもらうような文章というのも世の中にはある。

このとき求められるのは、ナラティブに詰め寄っていく解像度の高さと、今まではとにかく早く多く書いてきたものを、じっくり、少しずつ、丁寧に書き取っていこうという心がけなのではないか、というのを今は考えている。

2019年11月27日水曜日

師団と索敵が一致している

これから商売をはじめようという人だとか、日々に悩んでいる勤め人であるとか、家族との仲がよくない人を相手に、こう考えたらラクになる、こう行動したらうまくいく、みたいなことを強く伝えるタイプの文章が、たまに苦手で読めなくなる。

そういう文章にはある程度おきまりのフレーズが出てくる。

「手段と目的が逆転している」

なんてのがその最たるものだ。

「それは手段と目的が逆転しています。手段はあくまで何かを成し遂げるためのもの。手段をこなすこと自体が目的になっていませんか? 目的をきちんと見据えましょう」

こういう話は何にでも言えるうえに、書いておくと読んだ人が「ハッ」と自分を振り返って胸に手を当てる効果がある。だから汎用される。

けれどもよくよく考えると、「手段と目的が逆転しているよ」という文章の趣旨は実際には「手段イコール目的になっているよ」と言いたいだけであって、手段と目的が完全に逆転しているわけではなかったりする。だいたい、手段と目的がほんとうに逆転しているならば、かつて手段だった目的をターゲットにして、かつて目的だった手段を用いればいいだけの話であって、それは別に問題でもなんでもない。単に道程を順方向に歩くか逆方向に歩くかの違いだ。順方向に進んだ先に明確な栄光が待っていると信じている人にとってそれは耐えられないことかもしれないが、しばしば人生は、とりあえず足を動かしていれば健康になるという側面をもつ。方向がどっちであっても歩き続けていればなんとかなる。もっとも、止まっていてだめということすら、ないのだけれど。

文章を書く人はなぜか「手段と目的が逆転している」というフレーズを使いたがる。

そうすることでたぶん「受け止められ感」が得られるからだろう。

そういうことに気づいた瞬間からもうだめだ。つまんねえ文章だな、と思う。

そこからは4行くらいいっぺんに目に入れて急いで流し込み、あるいはこの文章のどこかにまだ驚くほどみずみずしいフレーズが潜んでいるかもしれないと、淡い期待を持ちながら残りの文章を読むのだけれど、たいていそんな見事なことばは出てこない。




「使い途のない文章」を読む日が増えていく。それはもしかしたら同人誌あたりにいっぱい眠っているのかもしれないし、あるいは純文学の中に潜んでいるのかもしれない。でもジャンルしばりでそういう文章を探しにいくこと自体が「目的指向」なので、なかなか一本釣りはできない。

自然とタイムラインに頼ることになる。アイコンがかわいいとか、ツイートが短すぎるなどの微妙なフックに釣り上げられてクリックした先にある、noteですらない微妙な媒体の短文を読んで、ほうっと網膜の裏側に色彩が浮かぶことがある。そういう文章はたいてい、「これを読んだからと言って何も、どうしようもない」ものだ。

しかし今こう書いていて思ったが、ぼくはもしかすると、文章の技巧にだけ癒やされているのだろうか? 手段と目的が一致してしまったのだろうか?

2019年11月26日火曜日

病理の話(388) エビデンスのナラティブ

病理の話というよりは医学の話をする。

西洋医学はよく「エビデンス」がだいじだという。エビデンス、すなわち証拠なのだが、もはやこの言葉は独り歩きして意味がいろいろとくっついて、雪山をかけおりていく小さな雪玉がいつの間にか大玉転がしみたいなサイズになっているように、複数の意味とニュアンスをあわせもつ化け物みたいな言葉になっている。

医学界における「エビデンス」: 先人たちが病気の診断方法や治療方法、処置の方法などについて、無数の結果を掛け合わせて、統計学的に「このやり方でやるのが現時点でおそらく一番いいだろう」と確認しているもの。

これで簡単に説明したつもりなのだが、ちっとも簡単じゃない。



たとえばぼくが、過去に、「山になっていた木の実を口に入れてみたら甘かった」という、素敵な経験をしたとする。

この経験自体は真実だ。某山に生えていたとある木に、鈴なりになっていた実を食べた。少なくともぼくは甘いと感じた。どこにも間違いはない。

ならばぼくは今後、「山に歩いているときにその木を見つけたら、あなたも実を探して、ひとつ手にとって、食べてみましょう、ぜったい甘いから」と、言いふらしてもいいかどうか?

「ぼくの経験」という一つの証拠(エビデンス)をもって、ほかの人にも、この木になる実を食べてみてよと言いふらしていいものかどうか?

たとえばそれはぼくにとっては甘いと感じられる味だけれども、子供がたべたらむしろすっぱいと感じるかもしれない(中年の味覚は子供とは違う)。

また、同じ木にいつも甘い実がなるともかぎらない。実はその実が熟するのにはとても多くの時間がかかるかもしれない。たいていは未熟なまま木になっているかもしれない。

そして一部の人にとっては強いアレルギーを引き起こすかもしれない。

実が甘いかすっぱいか、ほかの人にも安心しておすすめできるかというのは、たとえぼくの経験が真実だとしても、そう簡単に「誰にとっても真実だよ」とは言えない。




西洋医学というのは常にこの「食べてもいい実、食べたらいいことがある実」を探す学問である。

ある薬を飲んだら病気が治った、というひとつの経験をもとに、だからこの病気に対してはいつもその薬を投与すればいい、と結論するためには、とても多くの手間と時間がかかり、いっぱい頭脳が関与しなければいけない。その手間と時間と頭脳の結果こそが「エビデンス」。

これは常に確率や統計の話とセットで語られる。経験を1から10、100、1000と増やしていって、100万人に使っても、1億人に使っても、デメリットよりメリットの方がたいてい大きいよと予測できてようやく、「臨床応用」される。

100%病気を治す薬はない。がんにかかっても10年後に生きているか死んでいるかなんて誰にもわからない。人によってまるで違う。これらの「いかにも学者がいいそうなセリフ」というのも、すべてこの、エビデンスが膨大な数字の末に組み立てられた結果であることからやってきている。




エビデンスのことを、「無味乾燥だ」と言いたくなる人が、けっこういる。

「そういう数字の話じゃなくてさあ、もっと患者によりそって、一人一人の物語をケアしてくれよ!」

お説ごもっとも。

しかし、エビデンスを数字のマジックであるとか、学者の冷たい理屈であると考えて忌避するのは、ちょっと待ってほしい。

そもそも、強固なエビデンスを積み立てていったのは、別にコンピュータとかAIではない。エビデンスを作ってきたのもまた人なのだということを思い出してもらいたいのだ。

多くの医者や学者が関与した。少しでも世界の医療がよくなるためにと、多くの患者と向き合い、さまざまな治療の効果を検討し、考えて、学会で発表し、論文を組み上げて、教科書にまとめ、ガイドラインを作った。

エビデンスは無数の人々の努力の結果であり、英知の結晶だ。今や数行の冷たい活字になってしまったエビデンスにも、歴史を紐解けば、知性を積み上げるために奮闘した人々の物語(ナラティブ)が、きちんと隠れている。




スーパーでリンゴをみると、ぼくは最近、妙な想像をする。

大昔の人間……ホモサピエンスになる前の類人猿あたりが、野山でみつけたリンゴや、リンゴに似ているけれどあまりおいしくない実、口に入れるとよくないことがおこる未熟なリンゴなどを、次々と食べて失敗を繰り返しながら、少しずつ、「この色のリンゴなら大丈夫だ」と納得するまでにかかった長い時間。

ぼくらはその先に生まれて、親や絵本やテレビから、「リンゴおいしいね」という物語を安心して享受している。

けれどもきっと、リンゴはおいしいよ、というエビデンスが生まれる前に、類人猿たちが無数に試行錯誤したからこそ、今こうしてぼくらの手元に、野山ではなく誰かが育てたリンゴが毎日のように届くのだ。




それこそ、「最初にウニホヤナマコ食ったやつ勇者だよな」みたいな話でもある。

2019年11月25日月曜日

午前2時の暗中模索

最近は出張ばかりしているけれど来年はあまり出張しないことになっている。

対外的な仕事のほとんどを断っている。

なぜかというと、ぼくが出世するからだ……と書けば、多少はポジティブなイメージが出るかな?




来年の春、上司が退職する。定年を前にして、ほかの病院にうつる。

そのために来年度からぼくの仕事が増える。いつかはこうなるはずだったわけで、5年くらい早まったところで大差はない。粛々と対応していくしかない。

人が減り、責任が増え、あまり外に出歩けなくなる。

加えて、ぼくが長年師事してきた方の大ボスも、もうすぐ退職する予定だ。

あと2年くらいで、一気に「上」が2名抜ける。いよいよ、もう、あまり出歩いてもいられないのである。

来年ぼくは42だ。そろそろ管理職であってもおかしくない年齢。もっとも、病理医の世界はベテランがかなり多いので、42だと若造なのだけれど。社会的にはいいタイミングだろう。




今年、あちこちの学会や研究会に、「そろそろ出られなくなります。」とお別れをいう機会が増えた。着々と病院にこもる準備を進めてきた。

人々はいう。

「まだ若いのに、引っ込むなんて」。

「これからって時なのに」。

確かにね、ぼくは外でいっぱい仕事をしたけれど、何を成し遂げてきたわけでもない。もっと専心すべきなのかもしれない。外で働くなら、まだまだ、これから達成すべき点は山ほどあった。

けれども病理医は必ずしも外で働くべき仕事ではない。

もっと、1年に1報ずつ症例報告を丹念に積み上げていくようなスタイルで、きっちり仕事をしてくるべきだ。

落ち着いて、自分の足場を固める。加えてこれからは後輩を育てることも大事だろう。

病理の世界にはめったに後輩がこないので、今までは育てようにも人がいなかったのだけれど、最近はフラジャイルのおかげで病理医の人気も上々だ。何人か仲の良い後輩もできた。

つまりもう引っ込むべきなのだ。

何度も何度も自分に言い聞かせている。書いた方がいい論文がいくつかある。事務仕事も山積み。ひとつひとつ丹念に片づけていく。正直、外に出る暇はもうない。

けれどもなんなんだろうなあこのよくわかならいむずがゆさは……。






定期テストをひかえた中学生が勉強もせずにゲームに没頭しているのと何が違うのか、と言われたら、確かに、ぼくは、なんとなく遊びたいだけなのかもなあ、と思わなくもない。

けどぼくけっこう外でしゃべる仕事をまじめにやってきたんだ。

今更、ほんとうに今更だけど、「しゃべって伝えるほうの職能」が、それ以外のぼくの「寡黙なほうの仕事」を支えていたのだなあということに気づく。

まあもうどうしようもないところはあるんだ。

けれども、なんか、裏技のように、今まで以上に外で仕事をする方法はないものかなあ、と、暇で暇でしょうがない夜更けにぼんやり考えてしまうこともある。

2019年11月22日金曜日

病理の話(387) 細胞診専門医という限界マニア

ぼくの職業は病理医といって、顕微鏡で細胞をみて病気の正体をときあかし、病院では主にがんなどの病気の診断を手助けしている。

この仕事をするためにそこそこ必要な資格(絶対に必要とまではいわない)がある。病理専門医という。

この資格をとるにはそれなりの苦労がある。病理診断や病理の研究ばかりやっている、日本病理学会というところに所属した上で、訓練を5年くらいやって、その間に必要な経験を積んで、最後には試験を受ける。そうすると資格がとれる。

必要な経験というのはつまり実務経験なのだが、その中には

・迅速組織診



・病理解剖

が含まれている。これらの詳しい話は省くけれど、きわめて専門的な経験が必要なので、自分ひとりで病院の中で今日から病理の勉強をしますと言ってもまず達成できない。つまりは経験するために師匠が必要になる。だからどこかに所属しないといけない。そういう大変さがある。



ということでそれなりの苦労をして病理専門医になるわけだが、まあ、病理専門医という資格については、医学部に入って医師免許までとった人であれば、なんとかなる。まじめに4,5年勉強すればたいていとれる。

けれども実はこれのほかにも、細胞をみる専門資格があるのだ。

細胞診専門医、という。病理専門医とは微妙に異なる資格だ。もっとも、両方持っている人はかなり多いのだけれど。




病理専門医は、人体の中で細胞が作り上げている構造や、細胞ひとつひとつの形態などを、総合的に見極めるための資格。

これに対して細胞診専門医というのは、たとえていうならば

「ひたすら細胞の中身ばかりを見ていく仕事」

である。

病理専門医よりも、さらにミクロな世界で戦う。

ほかにも違いはいっぱいあるのだけれど、一般向けのブログでそこを細かく説明してもしょうがないのでここでは書かない。



あえて例え話にするとしたら……なにがいいかな、野球に例えようか。

病理専門医は、野球というスポーツのだいたいすべてを知り尽くしている。バッティング、ピッチング、フィールディング、走塁のしかた、ベースカバーのしかた。サッカーのことはわからないけれど野球だったらだいたいなんでもわかる、監督であり総合コーチみたいな存在だ。

これに対して、細胞診専門医は、例えるならばセカンドの守備に特化している。

ゴロのさばき方、ショートとの連携の仕方、バントのときにどう動くか、については、総合コーチよりもはるかに詳しい。セカンド専用コーチみたいなものだ。

打ち方は問わない。外野の守備も関係ない。しかし、セカンドの守備にだけ言えば、誰よりも詳しい存在。

細胞診専門医は職人的だ。病理専門医も十分職人なんだけど、それに輪をかけて。





この、細胞診専門医、若手の間ではあまり人気がないようである。

それはそうだろうな。病理専門医さえあれば、飯のタネには困らないのだから。

顕微鏡を駆使して細胞のあれこれに詳しい人間であるとアピールできれば、それ以上にマニアックな資格がなくても普通の病院では大活躍できる。

この上あえて苦労して、病理専門医以外の資格をとらなくてもいいじゃないか、と思う若手は多い。

けれどもぼくは、この、細胞診専門医資格のことが大好きなのである。理屈じゃなくて単に好き嫌いなんだけどね。




ぼくが病理専門医として働くためのスキルはかなり多い。細胞に詳しいことは職能の中心だ。でも、それ以外にも、臨床医がどうやって診断をしているか、病気の原因はどこにあるか、多くの医者がどういう検査をしているか、遺伝子解析にはどのような意味があるか、統計学、解剖学、分子生物学といった数多くの知識をなんとかかんとかやりくりしている。

これらの複数の知識は、必ずしも病理医だけがもっているものではない。

腫瘍内科医や、放射線診断医、外科医などは、ぼくらと同じような知識をそれぞれに持っている。

そのうえで、病理医はほかよりも「細胞に関する知識」が多い分だけ、病院の中で特殊性を発揮することができ、給料を稼ぐことができる。



で、この、「細胞に関する知識」については、病理専門医として勉強をするよりも、細胞診専門医として勉強をするほうが、さらにパワーアップできる。これはあくまでぼくの経験なのだけれども、ぼくは細胞診専門医を取得したあとのほうが、病理専門医としての仕事のレベルが確実に上がった。

セカンドの守備を知ることで、ショートにもファーストにも詳しくなるし、守備全体のリズムがよくなって、ひいてはバッティングにもいい影響が出て、結局チームが勝ちやすくなる、みたいな感じかなあ……。





今日はたとえ話ばかりしているけれど勘弁してほしい。この世界、マニアックすぎて、説明できないんだよな。けれどひとつ言えることがある。

「細胞診専門医の資格はいらないかな、病理専門医さえあれば働けるし。」

そうやってうそぶいている若い病理医がたまにいるのだが、もったいないな、と思う。

野球ってもっと深くかかわった方が楽しいと思うよ。まあ、無理強いはしないけどさ。

若いときからDHだけでがんばろうとするのはちょっと早計なんじゃないかなあ……あ、いや、おじさんのたわごとだと思って、聞き流してくれていいけどね。


2019年11月21日木曜日

小説は2回読まない

先日、「いんよう!( https://inntoyoh.blogspot.com/ )」の第65回収録で、ぼくが小説を2回読まないという話をしたら、先輩もリスナー(?)もけっこう驚いていた。

エッセイだと2回読むんだけど小説は読む気がしない。

どんな名作であっても。自分がどれだけ感動していてもだ。



小説のストーリーがわかってしまうと、基本的にもう読む気がしない……という気持ちに中学生くらいのときになってしまった。それっきり、小説は読み返すものではないと思っている。だらだら理屈を書いてもいいがこれはもう刷り込みみたいなものだ。

創作物全般を2回見ないと決めているわけではない。そもそもマンガは何度も読み返すし、一部の映画も(特にアニメであれば)何度か見てもちっとも苦にならない。

小説だけを2回読まない理由はよくわからない。先輩にも、「描写とか設定とか伏線とかを楽しもうと思ったら展開がわかった上で2回読まないとわかんないんじゃないの?」とつっこまれた。



収録が終わり、音声を聞き、自分の本心みたいなものを探って精神の中に潜り込んでいくと、ぼくにとって小説を2回読まないのは結局、自分が「文字による表現の深さ」に対してあまり興味を持てなかったからなのではないか、という結論に達する。

マンガを何度も読み返すときには、かっこいいシーンの構図や描写を何度でもみかえす。ドラゴンボールの13巻で悟空がピッコロ大魔王の腹を突き破るシーン、あそこを何度も読み返さなかったマンガ少年なんていただろうか?

紅の豚を何度も見た。セリフはほぼ覚えているけれど、見ることはちっとも苦にならなかった。小粋な音楽と美麗な映像にいつものようにひたることをよしとした。

でも、小説では、一切そういうことをしなかった。

今になって少し後悔している。




世にいる数多くの本読みは、あの本のあのフレーズがよかったよねというけれど、もちろんぼくは小説のフレーズなど全く覚えていない。

たとえば京極夏彦には、作品が変わっても登場人物が変わらないシリーズがある。そういうものは、シリーズを順番に読み進めていくうちに、お決まりのセリフとか表現が、自然と頭に入ってくる。

京極夏彦が好きだと言っておいてあれだが、結局はきっかり一度ずつしか読んでいないのだよ関口くん。

――りん、

風鈴が鳴った。

とかこういう表現は当然覚えている。

けれども細部は全く覚えていない。誰かと京極夏彦の思い出について語り合おうと思ったらこっそりスマホで感想サイトなどを探してフレーズを拾ってこないと、語れない。

ただ、おもしろい場所に連れて行ってもらったという記憶だけが残っている。





なんなんだろう。

これはもう理屈じゃない。そうやって進んできた結果、小説の技巧とか表現の妙味、もっといえば作文技術とか構成技術みたいなものが、大雑把にしか身につかなかった。




自分が昔書いた小説は、今にして思えばすべて、登場人物の「心情をどこに連れて行くか」ということしか考えずに書いた。

常に表現は雑で一直線だった。まるで学術論文のようだと言われたこともある。それが味だと言ってくれる人もいたが、ホネにだって味があるのといっしょで、つまりは肉の付いていない骨付き肉だった。

そもそも4000字以上のものはどうしても書けなかった。それは、よく使っていた投稿サイトが4000字以内というしばりをもうけた超短編小説会だったからかもしれないが、単に情景を盛り込んで文章を肉付けしていく作業に全く興味がなく、だから文章が長くならなかったからに過ぎない。





生まれてこの方小説を一度も読み返したことがない、と先輩には言った。

でもはるか昔の記憶を探っていくと、きっと小学生のころだろう、何度か読んだ本の記憶がある。

タイトルは「魔法のつえ」だ。

うろおぼえの記憶をたよりに、「魔法の杖 まほうのつえ 海外小説」などで検索をしてようやくたどり着いた。ジョン・バッカンという人が作者らしい。全く覚えていない。

たしかステッキの根元のところをひねるのだ。そうするとどこかへ行ける。

それを使って少年はどこへ行ったのだったか……。

検索してみると、あらすじ的なものとともに、藤子不二雄(A?F?)が子どものころに愛読していた本であるという情報が出てきた。ドラえもんなどのモデルになったのではないか、などとも書かれている。本当だろうか?

ぼくはこの「魔法のつえ」や、「果てしない物語」や、「ドラえもん」を、何度も読み返していた時期が確かにある。部屋に何冊か転がっていた本のうち、これらだけをときおり開いていた。決して本をいっぱい読むタイプの子どもではなかった。





この記憶にたどり着くまでにだいぶ時間がかかったが、思い出すことができた。

しかしなぜだろう。蘇ってきたイメージが不穏だ。

「魔法のつえ」が、灰色と黒の中間くらいのもやの向こうにぼんやりと浮かんでおり、子どものころのぼくはそのもやの手前で暗いベンチに一人で座って泣きながら怯えている。なぜかこのような映像がセットで浮かんでくるのだ。

ぼくはこれらの本がとても好きだったと思う。

でも記憶のぼくはなぜか怯えている。

どうもぼくはこの部分をあまり掘り返す気がない。



過去の体験を元に現在の行動を語ることを好む精神学者と、好まない精神学者がいる。フロイトとアドラーで例えればわかる、という人もいるだろう。

最近のぼくは、今の自分を過去の行動と結びつけるやりかたをしない。これは別にアンチフロイトだとかアドラー賛美でやっているわけではなくて、昔の自分は記憶の奥底に隠れてしまっているのが当たり前で、そこまでわざわざ戻る方法がよくわからないからだ。フロイトがぼくを過去に戻らせてくれるなら一度くらい戻ってみてもいい。けどそこまでしないしフロイトは死んでしまった。

そんなぼくがたわむれに、子どものころのぼくを記憶から無理矢理引っ張り出してしまったから、彼は怯えて泣いているのか。

かわいそうだ。自分の頭をなでる。




「魔法のつえ」をKindleで買うべきかどうか、ずっと悩んでいる。この本をもう一度読んだら、ぼくは今まで読んだありとあらゆる本を再読しなければ出られない時空の狭間に閉じ込められてしまうかもしれない。見返すのはマンガや映画だけでいい。

ぼくはたぶんこれからも、小説を2度読むことはないと思う。

2019年11月20日水曜日

病理の話(386) プレパラートを見て患者の年齢が当たるか

タイトルどおりの質問がきたのでここで答えます。

「プレパラートで患者の細胞をみるだけで、患者の年齢などを当てられるか?」



ぼくの場合は……2割くらいのケースでは「けっこう当たる」。

2割くらいのケース、というのは主に臓器によるものです。

胃だったらかなり当たる。

リンパ節は部位によるけどときどき当たる。

子宮は当たるのが前提。

肝臓は……自分が勤務してる病院だったら当たる。

乳腺はそこそこ当たる。

前立腺とか大腸は……自信がないな。




えっけっこう当たるじゃん、って感じかもしれないが、病理医はほかにも多くの臓器をみる。膵臓や胆管、胆嚢の場合は(生検だと)まず当たらない。食道は難しい。通算すると2割のジャンルに絞れば8割当ててる、くらいのイメージ。

なぜそんなことができるのか?



組織は老化とともに構成が変わっていく。

ピロリ菌存在下の胃は加齢とともに萎縮を起こすので、逆にいえば萎縮の度合いをみればおよその年齢はわかる。どんな腺管がどのように萎縮しているかを丹念にみて、ついでに間質とよばれるスペースの変化も丁寧にみると、勘だけど、たいてい年齢は当たる。

乳腺や子宮はもっと簡単だ。これらはホルモンの影響を受けてドラマチックに像がかわるので、ホルモンの影響がどれくらい加わっているのかをみれば、閉経しているかしていないか、閉経前だとしたらどれくらい前か、はなんとなくわかる。

ほかにも、さまざまな臓器で、「細胞が何度か入れ替わっているか、それともまだフレッシュか」を見分けることは十分可能だ。まあ、年齢当てっこゲームをしてもしょうがないんだけれど(だって依頼書に全部書いてあるし)。



もっとも、この「年齢当て」は、遊びでやってるわけじゃない。副次的な産物がある。

たとえば依頼書をみて、「60歳の女性」と書いてあることを確認して子宮内膜を観察したときに、内膜が「まるで60代にはみえない」ことがある。

異常にみずみずしくて、30代くらいではないか、と思ってぎょっとする。

この「不一致」から、ただちに直感を働かせるのが病理医だ。

「年齢に不相応な若々しい内膜。女性ホルモンの分泌が低下しているはずの60代にはとても見えない。ということは、女性ホルモンを異常に産生する腫瘍がどこかにあるのではないか?」

ただちに、CTなどの画像が撮られているかどうかを確認し、主治医に問い合わせる。これにより、別部位にある(今回の検査とは直接関係ないはずの)卵巣に腫瘍を見つけることができた――――

なんてことも実際に起こりうるのだ(もちろん今のはぼくが適当に作り上げたフィクションであるが)。だから、単なる年齢当てゲームではない。

胃の上のほうから採取してきた検体が「異常に老化」しているとする。この場合、ピロリ菌による変化であるとは考えづらい。これは自己免疫性胃炎と呼ばれる特殊な病態ではないか? みたいなことは日常的に行われているのだ。



ただ、この「年齢当て」、普段自分が務めている病院以外のプレパラートをみると、けっこう外れる(あくまでぼくの経験であるけれど)。

これはなぜなんだろうなあと考えていた。そしてある仮説にたどりついた。

たぶんぼくは、自分の病院の主治医が「どういうときに病理検査を提出するか」が身に染みついている。

「このような異常をもつ患者をみたら、こうやって病理検査をオーダーしよう」みたいな流れは、主治医や、その病院のスタイル、さらには病院に集まってくる患者の事情などさまざまな理由によって偏っている。

だからぼくは、自分の病院のプレパラートについては、HE染色の情報をみた瞬間に、多くのマスクされた情報を自動的に連想している。紐付け情報をあらかじめ脳内で統計解析しているのだろう。

したがって、普段働いていない別の病院のプレパラートをみると、背景に存在する条件が一気にかわってしまい、予測が当たらなくなる……。




ちょっと難しいことを言った。ひとつ思い出話をしよう。

かつて、ある南の島に行ったときの話。

現地の人が「ここでは天気はあちらの空から変わっていくよ」と言った。その方向は西ではなく、東南のほうだった。ぼくは不思議に思って聞いたのだ。

「天気って西から変わっていくんじゃないんですか?」

すると現地の人は応えた。

「そういえば本州からきた漁師が、昔、この島では天気の予測がつかねぇって言ってたなあ。たぶん雲の動き方が本州とここでは違うんだよ」




他院のプレパラートをみるといろいろ予測がはずれる、というのも、なんだかこれに近いような気がする。年齢当てゲームはほどほどに。もちろん、診断に役に立つ脳の訓練は、怠ってはいけないのだけれど。



これで答えになったかな? 質問者の方。ちなみにぼくは十二指腸もそこそこ年齢は当てられる。元ネタはフラジャイルでしょ? 知ってる。

2019年11月19日火曜日

レセプター理論

職場に歯ブラシを置くことで、午後、口の中がすっきりした状態で仕事ができる。

たった一行で言い表せるのに、長年やってこなかった。生活をいい方向に一歩進めることができる、魔法の一行だった。

こういう一行がいっぱいあるんだろうなと思ってツイッターをやっていた。けれどもすぐに気づいた。

「魔法の一行」は、一行しかないので、読み飛ばしてしまうことが多い。



冬のデスクは寒い。だからひざかけがあると快適だ。

たったこれだけのことに気づくのに何年もかかった。だって自分の脳に「ひざかけ」に対する受容体がなかったのだ。「ひざかけ」という言葉を見てもまったく心が動かなかった。意味はわかるのに。どういう役割を果たすかも知っているのに。

一行しかないライフハックは、そう簡単には心に刺さらない。心の方が欲しないと、受け止めることができないのである。




という話を、仏教の「慈悲」とか、医療の「問診」みたいな場面を念頭において、近頃はよく考えている。

受け手の側に準備がない情報を伝えるにはどうしたらいいのか。

それは「伝える」という行為で行うべきものなのか。

そういったところを洗い出す作業は哲学に近い。

だからよく哲学書を読むようになった。こんな何千行もある本、昔は全く読める気がしなかったのだが……。まあ……。心が欲しているのだろうな。

2019年11月18日月曜日

病理の話(385) すみません病理の写真がないんです

東海地方「スクリーニングCTC研究会」に出席するため、名古屋市内のホテルにいる。あと30分くらいしたらチェックアウトしなければいけない。

今回の研究会は、名古屋市内で朝から夕方までみっちり開催される。このプログラムだと、札幌に住むぼくは日帰りでは参加できない。なので久々の前泊である。

最近は福岡とか大阪の出張であっても日帰りだった(それもどうかと思うが)。

一泊できると、これだけラクなんだなと今さら感動している。ブログだって書けちゃうぜ。




研究会前日の夜、懇親会に参加することになった。10人ほどが集まる場所で飲み食いをしていたら、翌日に症例を提示する人が、圧強めに謝罪してきたので驚いた。彼いわく、

「先生すみません! 明日、症例検討で提示する病理の写真が、しょぼいんです……」

ぼく「しょぼい、とはどういうことでしょう? 解像度が甘いということでしょうか?」

人「いえ……臓器の肉眼写真はあるんですが……顕微鏡写真が足りないかも知れなくて……」

ぼく「えっ肉眼写真があるんですか? ならそれでほとんど大丈夫ですよ!」

人「あっ、そうなんですか? 顕微鏡写真いらないんですか?」




いらないわけじゃないけど、どっちかというと、臓器を直接カメラで撮影したマクロ写真(肉眼写真)のほうが大事だ。

これはけっこう勘違いされるのだけれど、CT、超音波、バリウム、内視鏡など、あらゆる画像検査をまじめに考える上で、病理の写真で顕微鏡像を重要視する必要はない。

細胞の核がどうしたとか、細胞質にどのような模様がみえるのかという情報は、あまりにミクロすぎて、現場の医者や放射線技師などが使うにはマニアックすぎるのである。核がでかいからCTで白く染まるというものでもない。

つまりは見ているもののスケール感の問題だ。CTや超音波で見えるものならば、それと同じ画角で撮影した肉眼像(マクロ像)を横に並べた方が理解が進む。





だったら病理医が顕微鏡で細胞をみる意味はなんなんだよ、と言われたりもする。細胞をみることは、臨床の画像とあわせるためではなく、よりスケールの小さい場所にひそんでいる情報をクローズアップするためなのだ。よりスケールの小さい場所というのはどこかというと、DNAであり、遺伝情報である。そう、生命科学に肉薄するためには細胞をどんどん拡大していくのがいい。CTや超音波で直接DNAを見ようというのは、それこそスケール感を無視した言い草なのだ。だから、遺伝情報まで探りたければ、サイズ的により近い、細胞の強拡大情報を集めるのがいい。


ひとつの病変をみる上で、各人が異なるスケール感で仕事をすると役に立つ。病理医はたまたま、マクロからミクロまで仕事があるので、マクロに仕事をしている放射線技師たちと、ミクロに仕事をしている生命科学者たちの間に立っている、ということなのである。



というわけで翌日の研究会はうまくいった。けっこうきれいなマクロ写真を提出していただいたので、よいディスカッションができたと思う。いつもこうだといいなあ。

2019年11月15日金曜日

ハイウェイトリプルエックスリビジッテド

大学時代に所属していた剣道部には、「剣吉」という名前の部誌があった。一年に一回、原稿を書くように言われ、なにかを書かなければいけない。

四つ上の代のキャプテンは、服がおしゃれでDJのバイトをしており話がとてもうまくて頭が激烈によく卒業後は脳外科医になった。あらためてこう書くと、自分がつらくなるほどにスペックの高い先輩であるが、部誌に投稿する記事までおもしろかった。とんでもない先輩だ。

20年以上昔だから詳しい内容は忘れたけれど、確かそれは「友人の話」みたいなしょうもないタイトルで、しかし今でも一部を覚えている。「友人はよく、小さないい間違いをする。自分で撒いた種、と言おうとして、自分で炊いた豆、ときれいに意味の通じるいい間違いをしていた。」みたいな、とるに足らない、しかしその経験をしたらまず多くの人が「ねえねえこんなことあったよ」と周りに言いたくなるような絶妙の小ネタが書かれていた。

もちろんぼくも剣吉に何かを書いた。しかし何を書いたかはまったく覚えていない。

うまく書けなかったのかもしれない。だからこそ余計に、先輩の書いたものが心に残っているのだろう。そんなとこだろうと思う。

いずれ自分でもなにかこうして自由にちょろい文章を書けるようになるものだろうか、ぼくは確かそこで少し成長したいと思ったのだ。確か。

ちょうどそのころ、ホームページを作った。世に自作のホームページが流行りだしていたころだった。「魔法のiらんど」のようなレンタル型の無料ウェブサービスをちらほら目にしたが、へたなりに自分で絵を描いてトップ画像を作り、ニフティのサーバーを借りてホームページビルダーというソフトを使って自分のホームページを作るほうがいいと思った。

自分の書くものは雑文と呼ぶべきだろうなと思った。随筆とか随想という言葉を使うには自分の文章に随意性は感じられなかった。自意識は羞恥心の殻の内部にパンパンに閉じ込められていた。しかし、「これはいつか世に届く」と言えるほど自分の文章が世にとって価値があるものだとは思えなかった。「ひとつの文章は常に15分以内で書く、だから多少稚拙でも仕方ない、これは即興芸なのだから」と、誰に対して用意したのかわからない言い訳を掲げて、毎日のように何かを書いていた。

大学を出て、大学院を出て、社会人になってもまだぼくはホームページに何かを書いていた。少しずつ頻度は減っていた。ツイッターを始めたときに、ツイッターはブログやmixi、Facebookと連動させようと思って一気に媒体を増やしたが、パソコンを買い換えていくうちにどこかのタイミングでホームページビルダーをインストールし忘れ、そのまま更新しないでいた。

あるとき、うっかり、インターネットのプロバイダーを変更するときに、ホームページのサーバーの契約ごと解除してしまった。一年以上経ってアッと気づいたときにはすべてのデータがなくなっていた。ホームページを作っていたときのノートパソコンもどこにあるかわからず、データのサルベージもやっていない。

日記帳を紛失するように、ぼくは自分のホームページをいつの間にか失っていた。ウェブアーカイブスを使えば一部の痕跡くらいは見つけることができるが、ま、いいかな、と思いそれっきりにしている。

思えばあの稚拙な日々は、文章講義を受けるわけでもなく、名著にどっぷりひたったわけでもなく、ただ竹刀を振ったり居酒屋で眠ったり、およそ研鑽と呼ぶには半端な、振り返ってみればなるほどモラトリアムとしか呼べない雑な積み重ねであった。それが今のぼくを形作っているのだからぼくは自分を笑って肯定する気にはなれないが、当時のぼくにひとつ言いたいことがあるとしたら、「どうせ無理だ」と思いながら毎日キータッチしていたそれは確かに文章力をつける上では役に立たなかったけれど、なぜかツイッターで全リプする根気となって今に残っているよ、ありがとう、みたいな感じである。あと結構本が出るよ。よかったなお前。



2019年11月14日木曜日

病理の話(384) 説明と同意は何も患者に対してだけ行うものではない

インフォームド・コンセントという言葉は頻用されすぎて、もはや人々の注意を集めることも少なくなった。そりゃそうだ、という話だからだ。

「患者に対して、今の状態や今後の治療選択についてきちんと説明をし、理解してもらい、その上で同意してもらって、二人三脚で診療を進めていこう。」

これがインフォームド・コンセントの概念である。何をいまさら、当たり前ではないか、と、誰もが思っていてほしい。



……昔は違った。



医者は治す人。患者は治る人。そこには主従というか能動と受動の関係があって、患者は全てを知る必要などないし、知ろうと思ったって素人だからどうせわからない。だから説明なんてなくていい、圧倒的なカリスマ性で引っ張っていってくれよ、先生! 

これが昔の医療だ。今これをやったらだいぶ寒いと思う。



これは別に理念とか倫理の話をしているわけじゃない。単純に、西洋医学は、患者がきちんと「当事者」であったほうがいい。自分の体に今起こっている状況をきちんと理解することは、天気予報をみて傘を持つかどうか、カーディガンやストールをバッグにしのばせていくかどうか、厚手の靴下にするか薄手の靴下にするかと悩んでその日のコーディネートを決めることと変わりがない。知らずに飛び込んでいけば変な汗をかいたりふるえたりして困る。薬をなぜ飲まなければいけないか、飲むとしたらどういうタイミングで飲むべきか、いつまで飲んでいつ飲み終わっていいのか、そういったことを理解しないで投薬だけ受けても病気は治らない。

すなわち、インフォームド・コンセント(説明と同意)というのは、患者と医療者が視点を共有すること、みなが当事者となるために必要なことなのである。決して裁判対策などではない(実際には裁判対策だから、皮肉で書いている)。



そして最近思うのだが、インフォームド・コンセントは何も主治医から患者にだけ向けて行われるものではない。たとえば、病理医から主治医に対しても行われるものである。病理診断というのは非常にマニアックで高度に専門化された知識なので、主治医たちは病理医に病理診断を依頼すると、あとはのんびり結果が出るのを待ち、レポートに書かれた文章を機械的に読んで行動指針とする。しかし本当はそれではだめなのだ。病理医がなぜこのように診断したのか、この診断が何の意味を持つのかを、主治医が「きちんと説明を受けて、納得していること」が、その後の診療において大きな意味を持つ。



つまり病理医もまたインフォームド・コンセントの達人でなければいけない。しかしこのことはしょっちゅう忘れられているように思う。何も医者同士仲良くしろって言ってるんじゃない、言葉をつくしてお互いに当事者であろうとしているか? ということだ。

2019年11月13日水曜日

思考がとろけるとき宇宙はどうなっているか

持続可能なかたちで社会をいい方に変えていこうと思ったとき、参考になるのは、単細胞生物がどうやって進化したかという過程を丹念に追いかけていくことである。


……うそだ、それはさすがにこじつけだ。


でもまあ思う。

人間社会の変化と、生命の進化とはわりと似ているはずだよなあ、と。

根底にあるエネルギー法則とかエントロピー法則とか複雑系の原理とかはそうそう変わらないはずなのだ。サイズ感は違うにしても。情報伝達の過程で社会が変容していく姿は、哺乳類がサルを経由して(?)人間が現れるまでの間に脳がどう変わっていったかを見るのとそんなに違わない、かもしれません(弱め)。



細胞同士が、最初は相互にくっつきあって、一部の栄養などを共有したりした。たぶんした。

そのうち、液体の中に情報を混ぜこんで共有することがはじまった。一部のタンパク質とか、あるいはmiRNA(マイクロRNA)みたいなものは、細胞間で情報をやりとりするのに用いられたんだと思う。

多細胞生物のやりとりにおいては、物理刺激(細胞骨格などを介して隣の細胞と直接やりとりする)、パラクライン(近くの細胞に対して何かを分泌して連絡するシステム)などだけでは情報の拡散ができない。そこに化学波の伝搬をもちいたやや広めの液相情報伝達が取り入れられ、さらに、血管と血液の導入によってホルモンという「最強の飛脚」が手に入った。

そしてこの前後でじわじわ登場したのが神経だ。

神経伝達物質というのは神経と神経の間にあるタンパクだけれども、神経の何がすごいかって、「神経内においては基本的に電位を用いて情報をやりとりする」ってことだ。詳しくは書かないけれど、電気のスピードでやりとりできるわけではない。しかし、カタチある物質でウニャウニャゆっくりやりとりするのに比べれば、神経内の伝達速度はだいぶ早い。




……以上の過程はきっとそのまま、社会にそっくりトレースすることができる。

手渡しでの情報のやりとりから、文字とかわら版を介した近所への伝達、そして道路と輸送システムによる遠方との連絡、そこに出てきた電気的な通信インフラの整備。



こうして並べて比べてみると、社会がインターネットを整備することで、世間に情報が爆発的に増えた、みたいな現象は、サルと人とで思考が爆発的に進化した、みたいなのとそっくりだなあと思う。

人間社会はようやく人の脳に追いついて、今まさに追い越そうとしているのだろう。




で、社会が脳化したら、次は地球外生命体と惑星間でのネットワークができて……となるだろうか? あるいは地球は、宇宙に対しての頭脳の役目を担う唯一の星なのだろうか?

ぼくらが知性だと思っている地球の社会は、実はトリケラトプスの腰のあたりにある「第2の脳」に過ぎず、ほんとうはどこかに宇宙の脳が別に存在するということはあるだろうか?

ぼくらがときおりブラックホールとか宇宙背景放射に興味を示すのは、ぼくらが自分の肌とか髪の毛に気を配るのと同じで、宇宙が自分の体をすみずみまで認識するために地球という脳を用意したからなのだろうか?




……これって病理の話として書いたほうがよかったかな? でも病理じゃなくて物理の話だな。

2019年11月12日火曜日

病理の話(383) 交通量を考える

高速道路のサービスエリアに、フードコートを出店することを考える。

一日に来店する人の数に応じて、レジのバイト人数を決めなければいけない。

その際に参考にするべきはまず、高速道路の通行量だろう。

車に何人くらい人が乗っているか。男女の比率。子どもや老人の数。

こういったものも、細かいメニューを考える上では参考になるだろう。またトイレの数を決める上でも避けては通れない。

そう、トイレ! トイレは重要だ。

トイレが汚いサービスエリアには誰も止まらない。

女性トイレが混雑するサービスエリアは、男性エリアを一時的に縮小して、個室を一部女性エリアに変更するような特殊な仕切りがあると聞く。いろいろやってるなあ。

いずれにせよ、サービスエリアというところは、いくら素晴らしい商品を揃えていても、いくらトイレをきれいにしていても、高速道路が過疎ってては売上げがあがらない。

高速道路あってのサービスエリアだ。まあそりゃそうだよね。






さて、今日は「病理の話」なので、人体の話をこれからする。

人体には血管が張り巡らされていて、中には血球やらコレステロール製品やら栄養やらが入り交じった血液がギュンギュン流れている。もちろん酸素も流れている。

酸素を体中に行き渡らせることですべての臓器は生き延びるのだが、このとき、酸素だけではなくて、栄養とか老廃物も一緒に輸送している。まーうまくできているわけだ。

そして、たとえば、腎臓というフィルターは、血液の中に含まれる老廃物を体外に除去する役割を担っているのだが……この腎臓のはたらきっぷりを考えるときに、腎臓だけに目を向けていてはいけない。

腎臓を通過する血液の量がとても大事なのだ。サービスエリアがいくらすばらしいメニューを取りそろえていても、客が来なければ意味がないだろう?

というわけで全身の血流量が腎臓の機能を考える上では大事になってくる。

なんらかの理由で血が足りなくなると、腎臓の機能もがくんと下がる。高速道路が通行止めになればサービスエリアは閑古鳥だ。

そして、ここがなかなかよくできてるなあと思うのだが、腎臓は座して待つだけのサービスエリアではなく、「血圧を調整する機能」を持っている。レニン・アンジオテンシン・アルドステロン系というメカニズムが腎臓にあって、血圧を保つ役割を果たす。サービスエリアが人気になることで高速道路自体が活性化されるかんじかなあ。

今は血流と腎臓の話だけをしたけれども、ほかにも、食物が流れることと消化管との間にある蜜月関係とか、けっこう「流れるものと留まるもののやりとり」が体の中には多い。人体は街に似ているなあ。

2019年11月11日月曜日

SNSとやさしい医療情報について

めったにこういうことしないんですけれど、こないだ連続でツイートした内容について、これから自分で何度も気にかけていくことになるな、と思っていますので、以下にツイート内容をそのまま転載します。すんません。決して病理学会出張のせいで忙しいから手抜きしたいとかいうわけではないです。ほんとうです。


----(自ツイの引用をします)----

誰かが言ったことをみんなくり返しているのだろうか、と思うのだが、ここ2年くらいで急に「ツイッターはほかのSNSと違って、間違えた情報が出ると専門家が袋だたきにするから情報の信頼性が高くなる」みたいなことを言う人が増えた。特に専門家自身がこういうことをよく発言する。気持ちはわかる

しかし、自分が専門としていない分野(歴史とか、軍事関係とか)をツイッターで眺めていて、いわゆる不正確な情報がバチボコ叩かれている姿は、素人であるぼくからすると「専門家同士が殴り合っている」ように見える。たぶん叩かれている方が間違いなのだろうが、いじめの構図とも似ているし不安になる

「多くの人にとってやさしい情報を、多くの人が安心して手に入れられるようにすること」を目指すならば、悪いと思った情報を叩くよりも、よいと思った情報を言葉を尽くして拡散するほうが強いのではないかと思う。手間はかかるし、拡散者は(誰かを叩くのに比べると)評価されにくいが……

できればこれから半年くらいの間に、「ツイッターはほかのSNSと比べても、やさしい情報が出たときに専門家たちがいっせいに拡散を手助けしてくれるから、いい情報が自分のもとに届く頻度が高い」という空気がうまくできあがったらいいのにな、と思う

この視点において、ツイッター以外のSNSでどう行動するかはツイッターとはだいぶ違う考え方が必要になると思う。一例だが、インスタグラムは発信者が「やさしい日常を送っています」というメッセージを送るためのものに特化させたほうがいいかもしれない。さらには「書影」を出すのもありか

Facebookはエコーチェンバー現象の温床みたいなところがあるが、専門家からするとわかりきっているような情報をいかに世間に伝わりやすい言葉でうまく表現するか、という「表現方法コンペの場」として使うといいかもしれない。コミチがマンガに対してやってることの一部は、Facebookでできると思う

複数の人が同じ話題に対してすこし長いものを書き、それをマガジンというかたちで人々に届けるプラットフォームとしてはnoteが優れている。おそらく、少なくともこれから1,2年の間は、SNSの中でnoteを使いこなしている人の発言力が一番強くなると思う。Twitterで拡散させるならnoteがいいだろう

その上でいかにYouTubeにつなげていくか、という話なのだが、YouTubeのメソッドについてはぼくはたぶんほとんど歯が立たないので、識者の発言を待ちたい。今ある医療系YouTubeはほぼワークしてない。切れ味するどい商売人がこっちを向いてくれることを待ちたい

なおぼくが絶対にNHKに出たくない理由は、ぼくの職能が「Twitterで人を集める」→「ぼくを許してくれる医療者の情報拡散を手伝う」だからで、拡散したいと思っていた人たちがNHKにつながった時点でぼくのできることはないし、ワクワクチンチン×おはよう日本は控えめに言ってもやばいと思う


----(自ツイ引用おわり)----


ツイッターをそのまま貼り付けると見たかんじ全然かわるのうけるね。

なお、元ツイはこちらからスタートします。

https://twitter.com/Dr_yandel/status/1189676857118998528


2019年11月8日金曜日

病理の話(382) 工場と道路の話

最近は出張のことばかり書いていたが、思い出したように「組織学」の話を書いておく。




人間の体の中には大量の「工場」がある。工場はたいてい液体を作っている。ねばねばする粘液(ねんえき)、さらさらする漿液(しょうえき)。あるいは液体に溶けるタイプの製品……消化酵素みたいなものを作っている。

こうして作ったものは、当たり前のことだが、適切な場所に運んで使わなければいけない。

人間社会といっしょだ。洋服を作ったまま工場に置いておいたらユーザーには届かない。輸送する必要がある。

工場で洋服が作られたらそれをトラックに乗せて、工場の敷地を出て、県道を走り、大きな国道に出て、人がいっぱいすれ違う渋谷のお店に運ぶ必要がある。

まったく同じ事を人体内でもやっている。

人体にある工場はいろいろあるが、たとえば「腺房(せんぼう)」というのがある。膵液(すいえき)を作る腺房、唾液(だえき)を作る腺房、乳汁を作る腺房などいろいろある。これらは洋服を作る工場やソファを作る工場や東京ばな奈を作る工場があるというのと同じ事だ。場所によって違うものを作る。

腺房で何かを作ったらそれを「導管(どうかん)」に流し込む。腺房の周りにはりめぐらされた導管は、工場の周囲を走る小道のようだ。それをたどっていくと、小道がだんだん集まって、大きな目抜き通りに繋がっていく。

たとえば膵液は、膵臓(すいぞう)の腺房で作られて、末梢膵管(まっしょうすいかん)と呼ばれる管に流し込まれ、それが寄り集まって主膵管(しゅすいかん)に合流する。まるで川が源流から大きく集まっていくように、一級河川である主膵管は堂々と膵臓のど真ん中を流れて、最後に十二指腸に開口する。

唾液は唾液腺導管に流れ込んで口の中へ。

乳汁は乳管に流れ込んで乳頭へ。

とにかくこういう構造がいっぱいあるのだ。胃液も、大腸の粘液も、それぞれサイズというか規模はいろいろ異なるんだけれど、基本的に「作って、流し込む」構造に沿っている。よくできている。

人体は工場と道路の組み合わせなのだ。



なおホルモンという物質を作り上げる工場を内分泌臓器(ないぶんぴつぞうき)という。これは導管とは連続していない。代わりに血管と連続する。ホルモンは血管の中に流れ込まなければいけない。だって血管の中で働く物質だからね。




なーんてことを知らないと実は人体の科学や病気のりくつがよくわからなくなる……と信じて勉強してきた……のだが、実はそれほど知らなくてもいいのかもなーということを最近考えている。テレビの仕組みがわかんなくてもテレビは見られるよ、的な。

でもまあ知っといてもいいよね。オタクはそういうのが大好き。きっとオタクに限らない。

2019年11月7日木曜日

ミニオンズのこたえ

「盛り上がり」の度合いをはかろうと思ったら、何をみるべきか?

普通に考えて、ステージをじっと見ている人々の表情をみるべきだと思う。

ステージ上でドッカンドッカン盛り上がってても、客席がしらけきってたらそれはスベってる。

内輪ネタ系のお笑いをみるとついツイッターをチェックしてしまう。「これ、内輪でだけ盛り上がってるんだとしたら、この番組で笑うのはなんかくやしいな」と思ってしまうからだろう。

盛り上がっているのがステージだけ、というのはいやなのだ。できれば客席こそ盛り上がっていてほしい。




何かを盛り上げたいと思ったら客席に回り込むほうがいい。

ぼくがまず盛り上がる。声を上げて笑う。そしたら周りも釣られて……。

でもサクラになるのはどうなんだろう。それもつまんねぇな。

客席に回ってみて、おもしろくないなと感じたら、そのときはステージに駆けよって、「スベりそうだよ」と伝えてみようか。

客席じゃなくても、ステージ裏に回り込んで小道具とか大道具とかをそろえて手伝いながら、ときおり客目線でゲラゲラ笑うのもアリだとは思う。

ただそれも客席からみると「アメリカのホームバラエティ風の作られた笑い」に見えるかもしれない。




そもそもステージと客席の区別はつくのだろうか、という気もしてきた。

大学の小劇団サークルみたいに、客席にいるのも全員関係者、というのが、人生劇場の本来のスタイルだったりはしないだろうか。





「盛り上がり」の度合いをはかろうと思ったら、何をみるべきか?

なんとなくだけれど、以上のようなことをつらつら考えた末にぼくは今、「自分がどこに立っていても笑って盛り上がれているかどうか」がポイントなのかもな、という気がしている。複数の目線をもつのではない、複数の居場所にいる自分を想像して全部たのしそうかどうかを探るということだ。




こういう抽象的な話を書く場所がほかにないので書いておく。

2019年11月6日水曜日

病理の話(381) 分類マニアの興味と熱意

出張先で買ったおみやげの味がだいたい似てくる。この鹿児島みやげ、仙台行ったときに買ったな、とか、この福岡みやげ、札幌でも買えるな、とか。

たぶん舌が雑なのだ。ぜつがざつなのだ。どうでもいいけど舌は「ぜつ」と読む。「した」とは読まない。医者だから。

うそだけど。



こういう話をすると、「おみやげは全国で一律に作ってるもののパッケージだけ変えて各地で売ってるパターンがあるんですよ」というご注進をいただくのだが、ま、そうなのかもしれないけれど、そこを言いたいわけじゃない。だって全国各地にベーグル屋さんとかドーナツ屋さんあるけどそれ全部中央で作って配分してるわけじゃないじゃん? 各地で同じお菓子を違うふうに作ることもあると思うんだ。千秋庵のチョコマロンとL'UNIQUEひよ子が似てるなーと思ったけど、これらは絶対に別々に作ってるし、たぶん食べ比べるとまったく違うものだ、けれどもぼくの「おみやげ分類学」が雑すぎるから同じ引き出しに入れてしまってしまう。

正直にいうけれどぼくはロッテリアとマックのポテトをブラインドで目の前に出されたとして、どっちがどっちか当てることはできないと思う。そこまで興味ないし……いや……興味はあるけど……熱意がない……。



興味はあるけれど熱意がないものがタイムラインにあふれかえっているので、タイムラインでマニアックに区分けされていたものに対して、「熱意はないが興味をもったときの自分の反応」がどういうものかはよくわかる。

「へぇーそうなんですね。よかった、今いっしゅん楽しかったですゥ」

こうである。ざんこくだ。だからもうすこし心を豊潤にしたいなーと思って、最近はこのように言い換えている。

「これをきちんと見分けてくれる人が世の中にいるのってすごいステキやん?」

なぜ方言化したのかはわからない。方言といえば、大阪と兵庫と京都と奈良の方言が少しずつ違う、みたいな話、ああいうのにも興味はあるのだがとにかく熱意がわいてこないので放置したままになっている。




病理学の分類について皆さんがどういう感想をもっているだろうか、という話をすごく遠回りに書いた結果が以上である。病理についてはぼくらが熱意もってやっときますんで。はい。たまに興味くらいもっていただければ。はい。

2019年11月5日火曜日

NEO-GEOのすごい社長感

かつて『本の雑誌』にベストセラー温故知新というコーナーがあり、ベストセラーなんて怖くない、というタイトルで書籍化もされた。芸能人本みたいなのから、トットちゃん、ビジネス書、とにかく100万部近く売れた本を懐古する企画で、入江敦彦さんの文章がとにかくうまいので楽しく読んでいた。

今、そういうのをたまに思い出している。



大型書店で平積みになっている本を少々信用しすぎた。ここしばらく、平積み系の本が立て続けに自分に合わなかった。立て続けに、というのを具体的に書くならば4冊連続。ただしその前に又吉直樹の『人間』を読んでこれはとてもおもしろかった。

そういえば母も『人間』を読んだそうなのだが、母はつまらなさそうにしていた。つまり本というのはそもそもそういうところがある。合う人と合わない人がいて当然である。だからぼくが平積み型読書に4回連続で失敗したからといって本屋が悪いわけじゃない。

ベストセラーったって、今や1億人が暮らす中で10万部も売れれば大ヒットであり、つまり1000人に1人にぴったりハマれば「世の中で流行っている本」ということだ。1学年に150人くらいが暮らすいまどきの小学校であれば、1年生から7年生(?)まで集めてきて校庭にならべて「この本好きな人~」と言ってひとりが手を上げるならその本は大ヒットする可能性がある……まあ今のたとえは年齢がすごく限られているから本当は不適切なのだけれど。それ以前に7年生とか言ってる時点で不適切だけど。



それにしても。

実際に売れてる数はともかくとして、出版社とか書店が大盛り上がりしながら「世でバカ売れしていると言いたくなるタイプの本」になんらかの特徴があるのだろうかと調べることはそこそこ楽しい。仮に1000人に1人、2000人に1人程度のバカ売れであっても、平積みにまでたどり着いた本にいったいどういう魅力があるのだろうか。ベストセラー温故知新を読むことでいくつかの知見は得たが、インターネット文脈がここまで書籍の世界に混じり込んでしまうと、今は今で別の事情が加わっていそうである。

最近ひとつ、昔は考えていなかった「売れている本の理屈」を考え付いたのだが、あまりに雑な考え方なのでここで書いておく(すばらしいアイディアだったらきっと大事にあたためて人前で発表しただろう)。



今は、「社長になりたい副社長」に向けて書いた本が売れているのかなーと思う。



具体的には、読者として一般市民を想定して書くのであっても、ある副社長がこのメソッドによって成功して社長になったよ、みたいな「副社長エピソード」を選んで濃厚に書く。一般市民に売るために一般的なエピソードを選ばない。ただし教訓だけは微妙に一般向けにしてある。

こないだ読んだビジネス書がまさにそういうやつで、鼻からへんな息がもれた。ときおりむやみに「これはPTAの会合でも使える」みたいに不自然に話を拡大するフレーズが挿入されるのでかえってよくわかった。副社長(になるくらいの能力があって運があって金周りもいい人)が社長になるための技術、夢と成功の臭いがする。(おそらく自分は副社長にはなれるだろう、しかし問題はその先にあるんだ……)なんて、ひそかに自負するまでは人間だれでもやるだろう。「副社長まではなれること前提」とはなかなかすごい話だが、人前で吹聴するのでもない限りは誰もが似たようなことをちょっっっとだけ夢想したことはあると思う。知ってか知らずか、最近の売れる本(の一部)はそういう書き方をしているように思えた。




なお、こういう書き方をした本は、副社長とか社長が読むとぴったりハマルことがある。すると彼らはSNSで言うわけだ、「いい本だった」。それはわりと本心だろう、だって元来、副社長が社長になったときのエピソードを書いているわけだから……。で、どこぞの社長がいい本だと言ったらそれは売れるポテンシャルがひとつ上がる。イチローが本を書いたとしてそれを巨人の坂本が読んで「おもしろかった」とどこかで言ったらバク売れするだろう。でもイチローの言葉を坂本が噛みしめるのと、それをぼくが読んでおもしろいと思うかどうかは本当は別の話なのだけれど……イチローについても坂本についても興味があるぼくはそういう本を買ってしまうと思う。



でもぼくは結局社長でも副社長でもないので、副社長→社長メソッドについてはあまり興味がもてないのだった。なおいまどきの本はあまり副社長とか社長とか書きません、たいていCEOとかCOOとかCO2とか書きます。

2019年11月1日金曜日

病理の話(380) 専門医番号をみるナースと所見の話

訪問看護の現場で働いている友人からメッセージが届いた。

友「病理の専門医番号って、あれ、専門医になった順番のことなの?」

意図はよくわからないが質問にはすぐ答えられる。すぐに返事をする。

ぼく「そうだよ。基本は合格した順。俺は2700番台だ」

友「そうかありがと」

一往復半でやりとりは終わったが、しばらくして追加のメッセージが入っていた。

友「たまに現場で病理のレポートを見るんだけど、その専門医番号が書いてあって、番号が若い方が書き方が丁寧でわかりやすいように思う」

ぼくはこの短いメッセージを読んで虚を突かれた。

ぼく「番号が若い方? つまりそれはだいぶ年寄りだってことだ」

友「そうなんだ、紙のレポートしか見てないからそれはわかんない。けど番号が3ケタだったりすると、だいたい読みやすくて、私が読んでも意味までよくわかる」

すこし考えて、このように答えた。

ぼく「昔、病理医は、臓器や細胞をみたら、そこで起こっていることをすべて文章にしてレポートの中に書いていた。その後、『取扱い規約』などが出てきて、現場のドクターたちがわかりやすいように、かつ、必要な情報が毎回同じ書式で手に入るように、記載が箇条書きになっていったんだ。」

すると彼女はほとんどノータイムで答えた。

友「箇条書きよりは説明の文章があったほうがわかりやすいわなあ。私たちは患者が持って帰ってきたレポートを見るだけだから、治療の方針を決めたりしているわけじゃないし、医者が読みやすいかどうかはともかく、患者からしたらきちんと文章で説明されていたほうがわかりやすいと思うけど。私の場合ね」





ぼくはメッセージのやりとりが終わった後もしばらく考えていた。

病理医は患者と会わない仕事だ。コミュニケーション相手は基本的に医者。主治医の採ってきた検体を顕微鏡でみて、主治医に答えを返す。だからレポートの内容は、専門の医者が読んで役立てることを前提として書く。

世界中の医者や統計学者たちが積み上げてきたエビデンスを有効に使うために、がんの診断をするときには、TNM分類や取扱い規約分類の様式に従ったレポートを書く。がん以外でも、診断基準項目を羅列してチェックマークを入れていくようなスタイルを選ぶ。そのほうが、主治医にとっては便利で、喜ばれるからだ……。

でも。

ま、わかってはいたけど。

患者もレポートは読むんだよなあ。

昔ながらの病理医のほうが、レポートの文章が読みやすかったというのは、昔の病理医たちは今よりもずっと細胞の性状を「描写」する訓練を受けていたからだと思う。ぶっちゃけ今の病理診断は細胞ひとつひとつのカタチをいちいち書くほどの余裕はない。けれども、昔取った杵柄、言葉のはしばしに、「伝わる表現」があるのだ、きっと。



温故知新とはこのことか。

ぼくはさっき自分が書いたばかりのレポートを読み返していた。

箇条書きのスキマを縫うようにちょっとだけ書き添えた、「所見」の数々。

所見とは細胞の所信表明演説みたいなもので。

そういえば、マンガ『フラジャイル』には、「岸京一郎の所見」というサブタイトルがついていたっけなあ。

うーん。

2019年10月31日木曜日

だとしたらずいぶんショックばい

奔逸した思考をかき集めて押さえつけるようにして、パソコンの前で息を吐いた。複数の仕事を同時にやりすぎた。自我が陥没してしまったような気持ち。精神が再び秩序立てて盛り上がってくるのを黙って待つ。昭和新山のような人格が立ち上がる。

最近Kindleで読んだ本が、立て続けに2冊、おもしろくなかった。そのせいで心がすこしざわめいて、疲れているのかなと思う。




ほんとうにおもしろい本を読んでいる時は、それがフィクションであろうとノンフィクションであろうと、「誰かの脳をなぞること」に没入できる。ひとつのことに集中できる。マルチタスクから解放される瞬間だ。

つまらない本というのはめったにない。人のおすすめを多く手にとるからだろう。ありがたいことである。

問題は、「中途半端におもしろい本」だ。これはしばしば遭遇する。おもしろいことはおもしろいんだけど、どうやらぼくはこの本にとってど真ん中の読者ではないようだな、というのがわかる。

本文がだんだん目の上をすべっていく。読み終わったらこの本をツイッターでおすすめしようかな、だとしたらどういうおすすめ文を添えよう、あのエピソードと絡めてみようかと、気もそぞろになってしまうともうだめだ。気がついたら、同じページの同じ行のところを何度も目で追っている。字は読めるが意味が入ってこない。そういうときにふと背筋を伸ばして、1,2ページほど戻ってあらためて読み直してみても、ぜんぜん読んだ記憶がない。ずっと集中できていなかったのだろう、仕方なく、章の最初まで戻ってまた読み直す、みたいな羽目になる。でも一度飛び去った思考はなかなか集め直せない。放牧地でいつまでも羊を集められないバイトの牧童のような気分で、自分を再統合するための手続きをくり返す。



いくつかのことをRAMに入れて同時に処理しようとすれば、結局どれも中途半端になる。だからマルチタスクというのは本当はウソで、瞬間的に一つ一つの仕事にケリを付けながら次々と向かう対象をスイッチしていっているだけなのだ。それがわかっていてなお、複数の案件を脳の中に入れておかないと落ち着かないぼくは、たぶん、心配性なのだろう。自分が見ていないところで何かが悪くなったらそれは自分のせいだと思っている。いまだにそういう思考が残っている。それで何度も失敗してきたはずなのに。




先日尊敬する人と話をしていたら彼が声をひそめて言ったのだ。

「君は本当に自虐をするなあ、やめたほうがいいぞ」

ああ、自虐という単一の概念でぼくの行動は規定されているようだ! ぼくはすこし安心してしまった。ここ数年、自尊とか自虐とか、たったひとつのやり方で自分の行動が解釈できたことなど一度もない。でもそれでは世の中をわたっていけないから、誰かがぼくをみたときに解釈しやすいように、アウトプットの部分についてはなるべくフィルターをかけてぼくの思考の最大公約数的な部分を拾いやすいようにと訓練してきた。その甲斐があった。ぼくは今、自虐的なフェーズにいたらしい。わかりやすくていいじゃないか。

行動を統一したいと思ったら優れた本を読むに限る。最近、本以外のあらゆるインターフェースを通した場合にぼくは自分の思考が一本化できなくなっていることを感じる。誰かと会って話すのが一番やばい。人と会うとき、常に抱えた思考の束の中から一番整頓できたものだけを選んで渡そうとする、その独善的な手際のひとつひとつにぼくはがっかりとしてしまい、早く帰って本が読みたいなと思うことが増えた。おそらく人生のエントロピーが増大してきているのだと思う。本はエントロピーの局所的な低下をもたらす触媒である可能性がある。

2019年10月30日水曜日

病理の話(379) 若手よ育て札幌セミナー

紅葉も半ばくらいなり定山渓。

10月の中旬、ぼくは札幌の臨床検査技師会が主催する1泊2日の勉強会イベントに招かれて講演をすることになった。

札幌市の南端、山の中に入っていったところに定山渓(じょうざんけい)温泉というなかなか規模の大きな観光地がある。市の中心部から車で1時間弱。ぼくの実家からだと30~40分程度といったところで、高級宿から子供連れにやさしい大型プールつきの巨大ホテルまでを兼ね備えた使いやすい奥座敷だ。

こんなところで勉強会やるのかよ、と驚いた。しかし臨床検査技師たちはときにこういう「交流込みの勉強会」を主催する。



かつて、大分県の九重温泉に呼ばれて1泊2日で、超音波検査技師たちと勉強会をやったことがあった。そのときは夜中の2時まで超音波画像と病理像の照らし合わせを行った。さすがに深夜0時を回ると出席者の半分は脱落して温泉に入ったり眠ったりしていたようだが、残りの半分はビールや焼酎などを片手に延々とマニアックな学術トークにつきあってくれた。ああいう会は一見ふざけているようで、実際にはかなり学ぶところも多い。単純に観光の思い出が増える一方、学術知識もいつもと違う脳の引き出しにストックされる。気分を変えて学び続けるというのは、専門職の知恵なのかもしれない。

そして今回の定山渓イベントもまた泊まりの勉強会だ。しかしぼくは翌日も仕事があるので、宿泊はせず、講演が終わったらとんぼ返りしなければいけない。飛行機じゃないだけラクといえばラク。自分の車で早々に家を出た。ぼくの出番は夕方だが、ぼくの前にしゃべる技師の講演も聞きたいし、何より今の時期、定山渓は紅葉シーズンで渋滞が予想されるから早めに出発した方がいいだろう。

予想に反して道はすいていた。それもそのはず、なかなかしっかりした雨が朝から降り続いていた。これでは紅葉狩りというわけにもいかないだろう。藤野・石山を通り抜けてするするとゆるやかな山道に入り、トンネルを抜けたら早めに右折して、目抜き通りの裏から定山渓温泉街へとアプローチする。

雨が山肌に反射して霧のようになっているのが美しい。紅葉はまだ五部といったところか。

まだ日は高いがぽつぽつと傘の人々が道にみえはじめた。温泉街につきものの、独特の看板をかかげるラーメン屋をいくつかやりすごし、屋根のついた足湯スペースに人がむらがっているのを横目にゆっくりと車を進めると、名の知られた宿の看板がみえはじめた。

今日のイベント会場は、「花もみじ」。はからずも季節感にあふれた名前の大型ホテルである。向かいには老舗の「ふる河」がある。となりには何度か買い求めたことがあるお土産屋があった。見慣れた風景だ。

ホテルの目の前に車を止めるのははばかられたので、少しだけ後戻りして、二階建てになった鉄筋の駐車場の1階に車を入れた。2階部分がコンクリートではなく基本的に鉄筋そのものなのだろう、屋根はあるのだが雨がしたたりおちてくる。あわてて後部トランクに入れた傘を取り出し、パソコンの入ったトートを胸にかかえてホテルへと急いだ。



会場にはすでに多くの……といってもせいぜい30名程度だが……技師たちが集まっていた。もっとも、行楽シーズンの土日に、超音波検査や病理の勉強のためだけに1泊2日で集まろうという猛者たちなので、少数精鋭という言葉がぴったりかもしれない。見回してみると知った顔が半分といったところ。よくみると超音波や病理とは関係のない部門の技師たちがちらほら混じっている。すでに管理職に上がった人間であったり、あるいは、勉強会を毎年主催する幹事側であるためにジャンルを問わずに必ず参加する人であったりするのだろう。



幾人かに挨拶をしつつ、すでに着席している人たちをそっと見渡す。はじまる前の時間に、「抄録」(講演会であれば各講演の要旨や、講演者の経歴などが記載されている)をめくっている人は誰だろうか、と探すのだ。ぼくのクセである。なぜそんなことをするのかと言われると自分でも理由ははっきりしないのだが、おそらくぼくは、今日の講演会を一番楽しみにしている人に向けて講演をしよう、と思っているのだ。

比較的若い人が熱心に抄録をめくっていた。

よし、今日は若い人向けにしゃべろう。

今回はじめて言語化してみて思ったがぼくはたぶんそうやって講演をしているのである。



医療者の学術講演というものは、いろいろな活用方法がある。自分の知らない最新の知識を吸収するために参加する人もいるが、そうではなく、すでに知っていることを誰かほかの人の口からきいてみたいというモチベーションもあるだろうし、自分の専門ど真ん中の情報をほしがる人もいれば、自分がふだんあまり気にしていない他分野の情報をなんとなく見てみたいという人もいる。

講演するほうもいろいろだ。自分の経験と自分がたずさわってきた仕事の話をきちんと話せばいい、それはひとつのスタイルである。しかし、聴衆が求める様式にあわせてしゃべる内容をいじくるタイプもいる。ぼくは「相手に合わせてプレゼンテーションを変化させる」ほうだ。

講演の依頼文の中に、「何をしゃべってもいい」と書かれている場合、必ず、一度はたずねる。「あなたが今一番聞きたい臓器や病気はなんですか」「具体的にお題をいただけたほうが助かります」。すると依頼者は熱心なので、そういうことでしたらとばかりに、なんらかのお題を返してよこす。そのお題が必ずしもぼくが一番得意な内容であるとは限らない。病理医であるというだけで病理ならなんでもしゃべれると思われがちだがそうでもない。しかし、いただいたお題がたとえ自分の専門性から多少外れていようとも、勉強することでそのずれを埋められると思うならば、その話は引き受ける。引き受けて、勉強して、講演会までの間に「自分の専門領域にしてしまう」。これはそこそこリスキーである。知ったかぶりしかしゃべれないこともある。けれどもぼくはそうやって、自分の専門とする領域の幅を少しでも広げようとやってきた。

うまくいっているのかどうか。それは聴衆側に聞いてみないとわからない。

今日ぼくがしゃべる内容は「肝・胆・膵の超音波画像と病理組織像の対比」。肝・胆・膵というのは、肝臓、胆道(胆のうなど)、膵臓という3領域のことだ。ひとまとめにして語られることが多い分野だが、あくまでこれらは3分野である。例えるならばサッカー、ラグビー、アメフトの話をしてくれ、というのに近い。共通点がフィールドがあることとボールがあることくらいしかないではないか。

かつてのぼくは肝臓病理が専門だった。だから肝臓の超音波検査と病理組織像の対比というお題の講演は初期から行っていた。そして、今から10年ほど前に、はじめて胆のうや膵臓に対する講演依頼が来た時には頭をかかえたものである。肝臓と全然違うのに……。たしかに、胆のうや膵臓の「病理学」に関する知識はあるのだが、それが他人に向けてしゃべれるほど整理されているかどうか、また「画像検査の知識」と併せて展開できるかどうかは別の話なのだ。

結局、講演のたびに、微調整を繰り返し、勉強をして、ほかの人がしゃべる講演を聴き、取り入れ、また学んで、と繰り返しながらここまでなんとかしのいできた。そして今回また「肝・胆・膵」。何度も依頼を受けてそのたびに講演という形で勉強してきたことで、もはや胆のうや膵臓の画像・病理も肝臓と同じくらいに語れるようになった。




……こうして書いていて思ったのだが、結局のところ、講演会で学び、新しい知識を吸収し、今まで持っていた知識を確認して、明日からの日常の診療に活かしているのが誰なのかというと、それはおそらく、聴衆よりもまず「講演しているほう」なのだろう。ぼくは先ほど「一番熱心に講演会に向き合おうとしている人に向けて講演をしようと思っている」と書いたが、そもそも依頼が来た時から講演に対して一番熱心に向き合う人間は講演者でなければならないのだった。話す方が熱心に学んでいるからこそ、聞こうとしている人の熱心さにこたえられるというものなのだ。


「若手の勉強になるように」としかけられている各種の講演会によってぼくは育てられてきた。となると、そろそろ、講演をする役目をぼくより若い人に譲らなければいけないよな、という気持ちになる。

講演をする人はすでに業績があり偉さが炸裂しているような大御所であってはいけないのかもしれない。

いや、まあ、大御所がしゃべる姿を肴に懇親会に進みたいタイプの人もいるのだろうけれども。




講演会を終えて自宅に帰る車の中で、ぼくはずっと、「次の時代を担う人に講演をしてもらうこと」を考えていた。札幌セミナーは翌日も開催されるが、そこにはぼくより9つくらい若い病理医が、「乳腺の超音波検査と病理像の対比」というお題にはじめて取り組むのだという。さぞかし大変だったろうな、と思った。乳腺の病理に詳しいからといって、乳腺の超音波画像と照らし合わせるなんていう「普段病理医があまりやらないこと」を講演と称して多くの人の前でしゃべるというのはけっこうなストレスなのだ。


一夜明け、ぼくは職場で仕事をしていた。合間にFacebookをみる。ちょうど先ほど終わったばかりの「札幌セミナー」の会場から感想をつぶやく知人の姿がFacebookに掲載されていた。

「乳腺の対比の話、おもしろかったです。〇〇大学病院の〇〇先生はすばらしかった。」

ぼくはなんだか泣きそうになってしまった。知らない人に対して心で拍手を送りながら、ぼくらはこうして前に立つために勉強を続けないといけないんだよな、と思ったし、もうぼくは若手じゃないのだから、呼ばれてしゃべれと言われて喜ぶのではなく、機会をきちんと若い病理医に渡していかないといけないよな、と、そんなことをひたすら考え続けていた。外はきれいに晴れ上がり、今日の定山渓はきっと紅葉がきれいだろうな、と思った。

2019年10月29日火曜日

自己紹介

寿司以外に手段を知らない。

ぼくは寿司以外に手段を知らない。

ぼくは寿司以外に見学に来た若い医者をほほえませる手段を知らない。



だから若手が職場を見学に来るときにはいつも困ってしまう。現代、「一緒に何かを食いに行こう」というだけでハラスメントになってしまう時代だ。「一緒に何かをハラスメント」。「一緒ハラスメント」。「一緒ハラ」。すなわちイチハラである。後輩に対して何かを食わせて満足させるという思考回路しかない場合、もはや上司としては不適格の烙印を押されざるを得ない。

それは、とてもすばらしいことだ、かもしれませんね、SAMURAI.




そういえばぼくは若い頃、大学院を出て今の病院にやってきたときに、外科医や内科医たちから「接待があるからついておいでよ」と誘われることがまれにあった。でも結局行かなかった。ぼくは薬を出す立場じゃないから、薬屋に接待される覚えがない。かたくなに断った。今にしておもえば、コンプライアンスもぐだぐだの時代だ、せっかくだから2,3回おごられればよかった。あそこでおごられたからといってぼくらの手が異常に汚れるわけもなかった。けどぼくは生真面目だった。美徳ではないだろう。他人との距離感をうまく測れなかったのだ。

つかずはなれずの関係を築いているうちに、とうとう誰もぼくのことは誘わなくなった。そうこうしているうちに時代が流れ、そもそも接待という制度自体が過去の遺物となり、研究会の打ち上げもすべて自腹が当たり前になって、ぼくはとても居心地がよくなったし、手に入るはずだった利得を手に入れないままここまで育ったことに誇りをもっているし、多少のさみしさも、なくはない。こういうことを書くと怒られるかな? でも「いいなあおごられるの……」くらい書いたところでバチはあたるまい。




さて、いざ後輩が現れる年になって、ぼくは困ってしまった。後輩というのはどのように接待申し上げればよいのか。接待がない世の中で接待をしようとたくらむ自分がこっけいだ。しょうがなく伝家の宝刀を抜く。

「ぼくもこうやってよく先輩におごってもらったから、キミもぼくに快くおごられてほしいし、偉くなったら後輩におごってやってほしい。」

けれどこの刀は使いづらいのであった。タダ飯だろうがなんだろうが、上司と同席してメシを食うこと自体にストレスを感じる人もいっぱいいるんだよな、ということが取り沙汰されるようになったからだ。




よく考えたらぼくは、接待されることがいやだったんじゃなくて、自分がとくに望んでいない誰かとメシを食うのが圧倒的にいやだったから、「薬屋さんに接待されるような身分ではないです」といういいわけを振りかざして断っていたのではなかったか。

きっとそうだ。ぼくは別にクリーンな人間だから接待を断っていたわけではなかった。

あのとき、もし、「お近づきの印に1000万円差し上げます、ご自由に使って下さい」と言われたらぼくの正義感は別に発動しなかったと思う。単に、仲がいいわけでもない薬屋と、仲がいいわけでもない他科の医者たちと飲むのがいやだっただけなのだ。




人は知らないうちに、本来の意図とは違うところで勝手にクリーンに生きていることがあるのだ。ぼくはこのことを、「接待」というクソ文化を巡る歴史の中で、学んだ。




それはそれとして困った。後輩にはどのように満足してもらえばいいのか? 答えは実は簡単なのである、ぼくが、黙って背中を見せるだけで後輩に尊敬されるような人間であればいい。メシはいらない。場所もいらない。ただ一途にはたらくすがたをみせればいい。一途にはたらけばいい。いちずはたら。いちはらである。

2019年10月28日月曜日

病理の話(378) 病理医の出張判断と診断のありよう

2019年10月12日(土)。ぼくは北九州市の産業医大に向かった。

目的は学術講演。産業医大の主催する学会で特別講演枠をもらっている。

タイトルは「医療とAIの今後 ~病理医の仕事はなくなるのか~」であった。




この日、2019年最強とよばれた台風19号が列島を直撃する予報が出ていた。日本のあちこちに甚大な被害をもたらした例のやつである。

台風は結局、関東から東北をなめるように進んだわけだが、講演の前日くらいまでは進路が読めなかった。ぼくは、「さすがに今年はたどり着けないかもなあ」と思った。

毎年1,2回くらい、台風のせいで出張の予定が変更になっている。去年は高知出張で朝の飛行機を早い便にずらしてぎりぎり帰ってきた。また、大分出張のときは台風接近により研究会自体が中止になってしまった。おととしは熊本で講演したあとに懇親会に出ず羽田にとんぼ返りしてそこで一泊し、翌朝の早朝便でなんとか新千歳に帰ってきた。

講演会場に到着できないときもあるし、講演できたはいいが帰ってこられないこともある。出張が多い人は、きっと強くうなずいてくれることだろう。

ぼくは札幌市に住んでいるから、西日本の出張では飛行機の乗り換えが普通だ。乗り換えがある出張だと、(1)出張先、(2)乗り換えの羽田や大阪、(3)新千歳空港 の最低3箇所の天候がカギとなる。そのため、台風がやってくると、東にそれても西にそれても直前まで心配が尽きない。台風に限らず、南は大丈夫であっても北は豪雪ということもある。



毎年のように、出張できるかな、できないかなと各種報道を注視していると、年々災害報道のレベルが上がってきていることを実感する。おととしより去年、去年より今年のほうが、災害に対する心構えがより早く報道されるし、飛行機の欠航が決まるのも早い。集合知の蓄積によってきちんと対策が打たれているのだろう。立派だなあと思う。



そもそも今回の出張については、札幌に住むぼくからすると、北九州なんて台風が来たら絶対むりだろ、みたいな先入観はあった。しかし現地の人に聞いてみるとどうやらそうでもないらしい。九州北部は意外と台風に強いのだという。そうかな? 去年は佐賀出張のときに前日の台風で駅前が浸水していたって聞いたけど……。飛行機はわりと降りるという。そうは言われても不安なので、複数の経路を準備した。

千歳→福岡の飛行機、直行便のほかに、千歳→伊丹→(新幹線)→福岡を検討した。ほか、羽田経由、セントレア経由、さまざまな乗り換えをかんがえておいたのだが、結局今回の台風では羽田と伊丹がやばそうだということになり、とっておいたチケットはすべてキャンセルして、前日の時点でスカイマーク直行便に命運を託すことになった。

そしていざ当日。

スカイマークは無事時間通りに離陸。台風を飛び越えて何の問題もなく福岡空港に着陸。なんと定時よりも15分早くついてしまった。

そんなことがあるのか? 愕然とした。まさか追い風のせいでこんなに早く……?

驚いていたら現地の人に笑われた。

「違いますよ先生。スカイマークはANAやJALと比べると『弱い航空会社』なので、ふつうは福岡の上空で着陸待機させられたり、滑走路に降りてからも遠回りさせられたりするんですけどね、今回、羽田とか伊丹とかぜんぶ飛ばなかったでしょう。だから空港が空いてたんですよ。着陸してすぐ飛行機から降りられたでしょう?」

そんなことがあるのか。全く知らなかった。結局ぼくは、「台風の影響で現地に早く到着してしまった」のである。



天気と飛行機とぼくの出張。もちろんそれぞれ関連がある。しかし、どれだけ科学が進歩して、どれだけ報道が丁寧になっても、今回ぼくが「台風のせいで講演会場に早く到着できた」という未来は全く予測できなかった。手練れの出張イストだったら予測できたろうか? いやあそういうものでもないと思う。複雑系において、人間が一番知りたいことというのは、いつでも後からしか予測できないものだと相場が決まっているのだ。

経済がよくなる・悪くなるなんてのもそうだし。

スポーツでチームが勝つか・負けるかなんてのもそうだ。

そして、医療もきっとそうなんだろうなーと思った。ぼくは病理医なのでどうしてもさまざまな事象を病気や健康と結びつけて考えてしまう。人がどういうメカニズムで病気になるかはだいぶわかってきたし、病気になるとどうなるかというのもなんとなくわかっている気になっているけれど、その病気によって患者がどういう毎日を歩むのか、明日どこにたどり着くのか、そのときどう思うのかまではなかなか予測できない。



なんてことを考えながらAIの話をした。今回もまた結論としては「AIが勝ち、ふつうの病理診断医はほろび、本物の学者と医療者だけが残る」という説明をしたのだが、内心、

「AIが勝ってもしょうがないんだよな。人間が負けないほうが大事なんだけどな」

と思っていた。

2019年10月25日金曜日

読んでもバズりはしないのだが

三省堂書店系列でほぼ1年にわたり開催していた『ヨンデル選書フェア』が一段落した。

2018年の11月末から、2019年の5月末までの半年間、三省堂書店池袋本店にて合計125冊の「病理医ヤンデルが選んだおすすめ本」を陳列してもらった。これが爆裂に売れた。

そしたらその後立て続けに、名古屋で2か月、札幌で1か月、神保町本店で1か月半、それぞれフェアを開催することになった。置いた本の数はそれぞれバラバラだったが基本的には池袋で選んだ本を置いた。ただし神保町のフェアでは、この1年に発売された新刊を4冊ほど追加をした。幡野さんや西さん、國松さんの本である。これらは本当によく売れたそうだ。さすが。



すべてのフェアが2019年10月に終わり、やれやれと思ったのもつかのま……。実は2019年の12月からまたフェアがはじまる。まだ正式告知されてないけど、言ってもいいだろう(ぼくはしばしばこうしてフライングをして怒られる)。

ヨンデル選書フェア 2ndシーズン。





今回もまた前回と同じくらいの本を選ぶことになる。まずは最初の1か月に、前回フェアで選んだ中から特選した30冊+新しく読んだ本の中からぐっとくるおすすめを20冊。

そしてそこからさらに、1か月ごとに、20冊くらいずつ追加をするのだ。最終的には今回も、半年間で100冊以上の本を順次ご紹介していくことになるだろう。

最初の月からすべての本を並べない理由はいくつかあるのだが、ぼくとしては、1か月ごとに1冊ずつ本を買い足したい人のためのフェアを目指している。先月並んでいた本のどれかを買った人が、しばらくして再訪してみたら自分が買った本のとなりにおもしろそうな本が加わっている、というのがやりたいのである。




やっていることはAmazonの「この本を読んだ人はこんな本も読んでいます」なのだ。つまりは日頃からおおくの書店員が棚を作る際にやっていることと一緒である。ぼくは選書フェアに関わることで本当に書店員の仕事を尊敬するようになった。本を選んで並べ続けるって終わりがないんだよな。




ただ実は問題もある。去年のフェアに並べた本125冊は、ぼくが20年以上本を読んできた上で、直近の3年~5年くらいの本からおすすめをえらんだわけだが、今年のフェアはせいぜいこの1年で読み足した本の中からコアを選ばないといけない。そんなに本読んでたかな、ぼくは……。

で、しらべてみると、結構読んでいるのだった。少なくとも年間200は読んでいる。ただしその中でオススメできる本がそこまで多くない。当たり前だがハズレの本もあるのだ。ハズレというのは内容がつまらないという意味ではなくて、「ぼくは楽しいけどこれ他の人はつまらないんじゃないかな」みたいな本も含む。「ぼくは楽しいけどこれ他の人はつまらないんじゃないかなって思うのはおこがましいからやっぱり並べてみようかな」という本も含む。「ぼくは楽しくないけどこれ他の人はすごい楽しいかもしれないな」という本もあるわけだ。これらをいちいち吟味するのは骨が折れる。

本を紹介しようと思ったら再読しないと「書評」が書けない。ぼくはこのフェアで、本1冊につき1枚の「短評カード」を添えてもらっている。350字以内でおすすめ文章を書いている。これを書くのがまたえらい時間がかかる。楽しい時間ではある。そもそもカードを本すべてに1つずつ封入している書店員の働きなくして、このフェアは成り立っていないのだから、ぼくがそれくらい苦労しなくてどうするのだ、という気持ちもある。なんにせよありがたい。みんなも本屋を楽しんでほしい。ぼくは本が楽しくてしょうがないぞ。

2019年10月24日木曜日

病理の話(377) 学術講演会のマニアックな心構えについて

ぼくは普段、もっぱら、「臨床画像と、病理像とを対比する講演」ばかりしている。

聞きに来る人は、医者や放射線技師、臨床検査技師など、医療のプロフェッショナルだ。素人(非医療者)相手の講演ではない。

病理医であるぼくは、臓器の肉眼像から情報をとるのが得意だし、プレパラートをみてそこに眠っている情報を引き出してくるのが職能だ。いわゆる病理診断。扱うモチーフ全般を「病理像」と呼ぶ。

これに対し、病理医以外の多くの医療者は、日頃、超音波とか内視鏡とかレントゲンとかMRIなどを通じて患者のことを知ろうとする。これが「臨床画像」。

「病理像」と「臨床画像」との接点をさがして橋渡しするような講演をすることで、病理医以外の多くの医療者たちが、日頃あまり触れることのない病理診断になじみ、喜んでくれる。





ところが最近のぼくは、AIをはじめとするヘルスケアの新しいシステムを語る人間として呼ばれる機会がちょろちょろ増えてきた。ぼくは別にAIの専門家ではないのに、である。

AIにもっと詳しい人は、あちこちにいる。なのにぼくがなぜ呼ばれるのかな、と考える。

ぼくを呼ぶ人たちの顔や反応をみてみると、もとより、AIに超絶詳しい人を呼んだつもりはないようだ。

どちらかというと、「そこまで詳しくなくてもいいけど、講演会を形にしてくれるならありがたい」くらいのテンションである。

ああそういうことなんだなーと、ちょっとだけさみしく思う。

「確実に盛り上がる講演なら内容は問いません」という意図を感じる。講演会という形式さえ完遂できれば、内容がさほど高度ではなくても、あまり専門性が高くなくても、コミュニケーションの役にも立つし、十分だ、ということなのだろう。

正直どうなのかな、と思う。




ぼくを札幌から呼ぶということはそれだけ交通費も宿泊費もかかるわけで、せっかくなんらかの形で予算を確保して、わざわざ休みの日に少なくない人数の医療者が集まってくるわけだから、それをコミュニケーション目的の学芸会のように終わらせてしまうのはもったいない気がする。





で、まあ、そういうことを考えながら講演のプレゼンをつくっていると、世間で言われているような「伝わるプレゼンの作法」だけではどうも足りないような気がしてくるのだ。




まず、「テイクホームメッセージを1個にしなさい」という、近頃誰もが指摘するプレゼンのセオリー。

真に受けてはいけない。ぼくはそれは聴衆をなめていると思う。

そもそも札幌からぼくを呼ぶのに、8万円とか10万円とかかかっているのだ。それだけの金をかけておきながら、講演から持って帰れるメッセージがプレゼンの中に1つって、そんなぼったくりみたいなことが許されるとは思えない。

少なくともぼくが講演を主催したときに、遠くから呼んだ演者が、28pt以上のフォントでスッカスカに作ったオシャレ紙芝居みたいなパワポの中に持ち帰れるメッセージが1個だけ、みたいなしゃべり方をしたら、なんとつまらないものを聞いたのかとがっかりしてしまうと思う。

そんなもの、講師を呼ばずとも、PDFで配れば事足りてしまうではないか。ていうかスカイプでやれよ。





……実際、PDFで配れば事が足りるであろう講演は世の中に多い。「何を聞いたか」「何を学んだか」ではなく、「誰がしゃべったか」「どの学会に出たか」を重視する立場で講演会をやるとそういうことになる。芸能人とかプロスポーツ選手とか作家などの著名人が講演するならそれでいいだろう。しかし、学術講演がそれでは困る。

「人間はそこまでまじめに人のプレゼンを聞いていないし、終わったらすごいスピードで忘れていくのだから、フォントは大きめに、内容は絞って、言いたいことは減らして」。

こんなもの、「講演会で勉強したくない人たち」に忖度しすぎだ。勉強したい人たちのことをなめている。




賛否両論わかった上で言うけれど、ぼくの講演のプレゼンは、とにかく情報量を多めにしている。フォントも、デザイン性は大事だが、絵本を作っているわけではないのだから、見た目の美しさにこだわるばかり情報を減らすようなことはしない。敷き詰めるときには意図をもって敷き詰める。会場の後ろから見えないようなプレゼンは作らないが、コピーライターを気取った体言止めばかりのプレゼンには学術的な魅力を感じない。

商品を印象づけて売るためにやる、営業プレゼンといっしょにされても困る。




個人の経験に基づく感想にすぎないが、学術講演には、話し手の熱意を受け取って明日の診療に活かしたいと念じる暑苦しい聴衆が必ずいる。

それは必ずしもいっぱいいるとは限らない。100人の参加者がいれば、5人も混じっていればいい方かもしれない。

けれども、ぼくはそういう「本気で勉強したい人」にこそ向けて学術講演をやるべきだと信じる。

「とにかくわかりやすい」を一義にする気は無い。

メモを取りながら本気で、プレゼンのすべてを持って帰ろうとがんばる若い医療者が、どんな講演会にもたいてい数人潜んでいる。メインターゲットは彼らだ。彼らが、一生忘れられないレベルの情報の洪水を浴びせかける。それこそが、金をかけて呼ばれてしゃべる人間の責務だと思う。

最大公約数のためになんてしゃべらない。

会場に出てきている人間たちの、可能性の最小公倍数にあわせてプレゼンを作る。





だからプレゼンはとにかく濃いめに作るのだが……。

ぼくもオトナなので、そうやって自説ばかりを振り回していても誰も喜ばないということもよく知っている。

そこで、パワーポイントのプレゼンは濃厚に作る一方で、しゃべり方はできるだけ簡潔に、それこそ「テイクホームメッセージにまっすぐ進んでいるようなかんじで」、しゃべるように心がける。

1.目から入ってくる情報を豪華に。

2.耳から入ってくる情報はシンプルに。

つまり視覚と聴覚の情報をずらすのである。そうすることで、「会場内になんとなく来ていたコミュニケーション目的の、あまり勉強する気は無い人たち」にも、それなりに楽しんでもらうことが可能となる。





どうも世の中の一部の医療系プレゼンターはこれと逆の作り方をしている。シャレオツでパワポ1スライドあたりの情報量がやけに少ないものを数枚出しながら、逆にスライド内に書いてないことを含めておもしろおかしく漫談のようにしゃべってやろう、というタイプ。

1.目から入ってくる情報をシンプルに。

2.耳から入ってくる情報を豪華に。

パワポはコピーライター型。しゃべりは明石家さんま型がいいと思っているのだろう。

ぼくに言わせればちゃんちゃらおかしい。

こういう人のプレゼンを見ていると、「聴覚よりも早く全貌を認識できる視覚がヒマになってしまう」のが気にくわない。目のやることが終わってしまっているのに、耳からはのべつまくなし、情報が飛び込んでくる。しょうがないからプレゼンターの顔ばかり見る。おっさんの顔を凝視する時間が長いプレゼン。基本的に苦痛だ。

こういうプレゼンは、「何をしゃべっているか」ではなく「誰がしゃべっているか」を強調したいときには役に立つだろう。

でも繰り返すけれどぼくがやりたいと思っている講演は逆なのである。やる気のある人と内容を共有したい。




というわけでぼくは世の中のプレゼン作法とは異なるやり方で講演をする。「いやーすごい濃厚なプレゼンでしたねー」と言われた人はそもそも相手にしていない。どれだけ込み入ったプレゼンを作っていようと、しゃべりが理路整然としていれば、講演が終わった後に必ずぼくの元に猛ダッシュしてきて質問をしてくる熱心な人が何人か現れる。




……と、まあ、ここまで偉そうなことばかり書いてきたが……。

実は上記はあくまでぼくが「理想とするかたち」であって、実際のぼくは、

1.目から入ってくる情報を豪華に。

2.耳から入ってくる情報も豪華に。

の、豪華×豪華でプレゼンをしていることが圧倒的に多い。そんなことだからしゃべりすぎるタイプのコミュ障とか言われてしまうのだ。プレゼン道は険しい。